「多様性」は他人を認めるための言葉ではなく、「自分が間違っている可能性」を知るための言葉だと思う

コミュニティ・メカニズム

「多様性」が叫ばれる時代、というか「多様性」という言葉を目にする機会が増えた昨今。

このブログでも「多様性」についてはいろいろと考えていて、それを認めたり守ったりすることは大事なことだなと感じています。

一応参考までに今まで「多様性」について書いた記事を並べておきます。

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そしてこの記事も「多様性」がテーマ。

でもここで書きたいのは、多様性って大事だよねっていう話とはちょっと違います。

ここのところ何となく、多様性を受け入れるとか認めるとかいう言葉に違和感があって、その正体が何となく分かった気がするのでメモ的に書き留めておきます。

※この記事はできればコメントまで読んでいただけると伝わることが多いと思います。むしろこっちが本文と言って良いかも。

Contents

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「多様性」という言葉が持つ、あらゆることを肯定する空気

多様性という言葉は、「尊重する、認める、受け入れる」というような言葉とセットで語られることが多いと思います。

世の中には色んな人がいて、色んな考え方の人がいるんだよ。みんなそれぞれ違っているけれど、それは個性であっていずれも尊重されるべきものなんだよ。みんな違ってみんな良い。みんなありのままの姿で生きていける社会が良いよね。

大袈裟に言えばこんな感じだと思う。

でも、やっぱり違和感があります。自分でもこのようなことを書くことはあったかもしれないけれど、なんか変。

それは、「多様性」という言葉がけっこうダイレクトに「肯定」の言葉だからだと思う。

多様性と言っとけば、あらゆることが「是」となる空気、「是」としなければならない空気が漂う。

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みんな平等に正しいのではなく、みんな平等に間違ってる可能性がある

反対なのだと思う。

「多様性」という言葉は、「みんなあってるんだよ」ではなくて、「あらゆることが間違っている可能性がある」という戒めのニュアンスで使われてこそ意味を持つのではないか。

「自分と違う誰かがいても良い」ではなく、常に「自分は間違ってるのかもしれない」と考える余裕と慎重さを持つことこそが、「多様性を尊重する」ということだと思う。

つまり一寸先が分からないっていう同じ条件下において、僕らが抱えてるリスクはみんな一緒だよねっていうことを謙虚に理解するための言葉だと思う。

建前としての多様性

そういう風に考えないとおかしなことになると思う。多様性の名の元に、あらゆる存在が肯定されて、尊重されるべきだということになったら。

それがマイノリティな個性であればみんなで守らなければならないという設定になったら。

極端な話、僕の近くに「暴力衝動が抑えられなくて、気に入らないことがあると人を傷つけてでも我を通す人、欲しいものがあれば力づくで奪う人」が来ても受け入れなければならないかもしれません。

そういう人格も個性だし、多様な人間のうちの一種類だから、その存在を認め、肯定し、受け入れるべきなんだろうか。世の中にはこういう人もいるよねで納得しなければならない?

「どうしても働けない人」も個性だしその人が持つ特性だから認めるべき?

「酷い恋愛体質で誰とでも関係を持ってしまう人」は?

「邪教みたいなものを信仰している人」は?

どこからが極端で、どこまでが許容範囲なんだろう。

許容範囲内の違いならあっても良いんじゃない?って言うなら、結局のところ自分(もしくは社会)の許容内という画一的で限定的な価値観の中でしか多様性が語られないということになり、そこに人為的な選択がある以上、「多様性」なんてものはあってないような、建前としての言葉になる。

誰かに認めてもらいたい自分の正しさ

ここで、ちょっと特殊な例えになってしまうかもしれないけれど、昔受けた大学の講義を思い出したので書きます。

他にもどこかで書いた気がするけど、それはアイヌ民族の末裔がゲストとしてお話しをしてくれるという講義でした。

色々な差別を受けて来たようですし、偏見にも晒されたと言います。伝統的な食事や言葉について語ってくれました。その方は、ただ自分たちの存在を認めてほしかったと言います。自分たちのような民族が日本にいるということを知ってほしいのだと言います。

知ってる、と思いました。講義が始まる前から認知してる。教室にいた全員がです。だってそうじゃなきゃ「アイヌ民族の末裔の方が講義してくれる」という意味が通らないでしょう。アイヌ民族の末裔がいることは全員知ってたのです。

「言っていたのは差別は止めて欲しいけど区別はしてくれ」という意味だろうか?というようなレポートを書きました。違いを認めてほしいというのは、ただ知るだけではなく、積極的に尊重し、守るべき文化として扱ってほしいということだろうか。それは差別ではないのか。

自分の存在を誰かに認めてほしいと思うなんて、自分の正当性を受け入れて欲しいと思うなんておかしいなと思ったのは、もしかしたらこのときが始めてだったかもしれません。

自分のアイデンティティに正当性があると考えるのは良いけれど、だから他人にとっても正しいはずだと考えるのは少し乱暴だと思う。だってそれは他者を理解する努力に欠けているから。

自分は正しい存在だけど、誰かにとっては間違ってるかもしれないと考えるのが多様な社会で生きるということなんじゃないかな。

自分の正しさに執着しなければならないのは辛いよ

なんかふわふわとしていることを言っている気がするのであえて言い切ってまとめにするけれど、多様性という言葉は他者を肯定するためのものではなく、自分を否定するためにあるのだと思う。

世の中にはいろいろな人がいる。自分も特殊であり、誰かから見ると異常かもしれない。長い目で見れば今やっていることは間違っているかもしれない。

否定と言えば言葉が強いけれど、自分を疑うというチャンスが与えられるからこそ、多様性は大事なのだと僕は思う。

他人との違いを見て、知って、与えられるのは、自分を疑うという絶対に一人ではできないことに励むチャンス。

多様であるということは、たくさんの正しさがあるということでもあるけれど、その数だけ間違いがあるということでもあります。

多分正しいことなんて一人でもできる。一人ぼっちなら何をしても正しいと言っても良いかもしれない。

僕らが他者を必要とするのは、自分の間違いを理解しようとするときだと思う。

だから多様性というのは、自分の正当性を確保するためのものではなく、自分を疑うための言葉だと思う。

「多様性」は他人を認めるための言葉ではなく、「自分が間違っている可能性」を知るための言葉だと思う(完)

コメント

  1. A より:

    『多様性という言葉は他者を肯定するためのものではなく、自分を否定するためにあるのだと思う。』
    この文を読んで、ん?と一瞬違和感を感じました。
    なんですんなり意味が読み取れなかったのか、考えてみると、「多様性という言葉は他者を肯定するためのもの」だという前提が引っかかったからかなと。
    自分にとって多様性という言葉は、”自分を含めた様々な価値観”の存在を肯定するためのものであり、多様性が認められる社会はすなわち自分(を含めた全ての人)の存在が認められる可能性のある社会である(もちろん公序良俗や公共の福祉は考慮するとして)。
    もっと詳細に書くと、「多様性を尊重することは自分を含めた全ての価値観を尊重することであり、それをできるだけの想像力を持った人は自分の中に多面的な価値観を持ち合わせることができるので、視野が狭くならず自分の価値観についても客観的に否定する目を持てる」ということで、結局は『多様性という言葉は他者を肯定するためのものではなく、自分を否定するためにある』ということになりますが…

    『自分も特殊であり、誰かから見ると異常かもしれない。長い目で見れば今やっていることは間違っているかもしれない。』
    確かに、多様でない(王道の)価値観を持つ人にとって、多様性は(王道である)自分が相対的に『特殊』『異常』である、あるいは『間違っている』可能性を想像するきっかけになるかもしれません。
    他方、多様な(王道でない)価値観は、日常的に『特殊』『異常』である、あるいは『間違っている』と判断されがちですので、多様性を認めない社会においてこそ(王道でない)自分を『間違っているかもしれない』と自問するのではないでしょうか。
    王道でない価値観を持つ者にとって、多様性が認められる社会とは、必要以上に『誰かから見ると異常かもしれない』と思い詰めないでよい社会ではないでしょうか。

    『自分を疑うというチャンスが与えられるからこそ、多様性は大事』
    確かに、多様でない(王道の)価値観を持つ人にとって、多様性は(王道である)自分を疑うチャンスになるかもしれません。
    他方、多様な(王道でない)価値観は常に”常識”に疑問視されますので、多様性を認めない社会においてこそ(王道でない)自分を疑うことになるのではないでしょうか。
    王道でない価値観を持つ者にとって、多様性が認められる社会とは、これ以上疑われ続け、自分を疑い続けなくてもよい社会ではないでしょうか。

    『多様であるということは、たくさんの正しさがあるということでもあるけれど、その数だけ間違いがあるということでもあります。』
    価値観に正しさ(や間違い)を付与することは、多様性の尊重とは別の概念であると思います。
    多様であるということは単に”一様ではない”ということを意味するはずです。
    多様性を認めるということは、文字通りに読めば「”多様である”ということを認める」「一様であるということを固持しようとしない」「王道でないことのみを理由に排除しない」ということです。
    「多様な(王道でない)価値観を正しいものとして認めよ」という言葉ではないはずです。
    例えば、『僕の近くに「暴力衝動が抑えられなくて、気に入らないことがあると人を傷つけてでも我を通す人、欲しいものがあれば力づくで奪う人」が来』たとすると、「暴力衝動が抑えられない人は一般人とは違うから排除します」が”多様性を認めない社会”、「暴力衝動が抑えられない人もいるでしょう(が人を傷付ける行為は他者を侵害する行為なのでこれを行った場合処罰します)」が”多様であることを認める社会”、「暴力衝動が抑えられない人は一般人とは違って可哀想だから何をされても受け入れないと」が”多様な価値観を無条件に正しいものとして認める社会”という分類はいかがでしょう。

    『自分の存在を誰かに認めてほしいと思うなんて、自分の正当性を受け入れて欲しいと思うなんておかしいなと思った』
    『自分のアイデンティティに正当性があると考えるのは良いけれど、だから他人にとっても正しいはずだと考えるのは少し乱暴だと思う。だってそれは他者を理解する努力に欠けているから。』
    ここが最も違和感を持ったところです。
    恐らく本当に言いたいことは「多様だ(王道でない)ということをもって自分の価値観を”正だと”認めてもらおうとするのは自己中心的で、他者が持つ正誤について判断する自由を軽視している」ということかと推測します(的はずれだったらすみません)。
    しかし、『ただ自分たちの存在を認めてほしかった』という言葉の裏に「社会から”多様である(王道でない)”ことを理由に否定されてきた背景がある」と仮定するなら、それは「自分のアイデンティティが”正当であるということ”を社会の全ての人に認めてほしい」ではなく「多様な(王道でない)存在を”排除しないで”ほしい」という言葉に聞こえます。
    何にしても、この『認める』という言葉を、「正当だと判断する」ととるか「排除しない」ととるかの違いかと思います。
    『ただ自分たちの存在を”排除しないで”ほしかった』という人に対して『自分の存在を誰かに”排除しないで”ほしいと思うなんて、自分の正当性を”否定しないで”欲しいと思うなんておかしいなと思った』と読んでしまうと、相当に誤解される可能性の高い文章ではないでしょうか。
    「もしかしてこの人は、多様性(一様でないこと)が否定されることで社会に自分の存在を認められなかった(排除された)経験がないのか?王道にいたから、社会に自分の正当性が受け入れられなかった(否定された)経験がなくて、だから社会に認めて(排除しないで)ほしいという言葉をおかしいなと思ったのか?それともよっぽど自分に自信があって、自分の価値観をいくら否定されようとも自分一人いれば自分の正しさを信じられる人なのか?」とぐるぐる考えてしまいました。

    『自分は正しい存在だけど、誰かにとっては間違ってるかもしれないと考えるのが多様な社会で生きるということなんじゃないかな。』
    恐らく言いたいことは「多様である(王道でない)ということのみをもって正当化するのは違うんじゃないか、多様である(一様でない)ということを本当に理解していれば正誤も多様である(一様でない)ことを理解しているはずではないのか」ということなのかと推測します(的はずれだったらすみません)。
    しかし、そもそも「多様性を認める=王道でない価値観を正当化する」という使い方が誤用であり、本来は「多様である(一様でない)ことを排除しない」というのが多様な社会の意味なのだとすると、それに対して「間違ってるかもしれないでしょ」というとまたややこしく誤解を生むのではないでしょうか。
    例えばトランスジェンダーに対して、『自分は正しい存在だけど、誰かにとっては間違ってるかもしれないと考えるのが多様な社会で生きるということなんじゃないかな。』と言えるでしょうか。
    「”誰かにとって”どころか、”社会にとって(常識的に考えて)間違ってる”なんて、多様性に不寛容な社会でこそ散々言われることだし、多様性に寛容な社会になって初めてトランスジェンダーだってあなたたちと同じ程度に”正しい”存在だって言えるようになるっていうのに、何言ってんの?逆だよ逆」と反論されてもおかしくありません。
    確かに、多様性なんて認められなくても不自由なく生きていける(王道の)人々にとって、多様な社会で生きるということは『誰かにとっては間違ってるかもしれない』と考えるきっかけ程度のものかもしれませんが、一様でなければならないとされる社会で価値観を否定される(王道でない)人々にとって、多様な社会とは『自分は正しい存在だ』ということを否定されない、最低限の自己肯定感を養える社会です。
    と考えると、『自分は正しい存在だけど、誰かにとっては間違ってるかもしれないと考えるのが多様な社会で生きるということ』という文章からは、王道の傲慢さを凝縮したような違和感が浮かび上がります。自分たちにとっては自分が正しい存在だと言い切ることなんて当たり前だからそんな発想ができるんだな、びっくり、という感じです。
    多様な(一様でない)価値観を持つ人々が皆『自分は正しい存在だ』と自己肯定できればもうその時点で8割がた多様性を認める社会が実現されているのではないでしょうか。

    自分も[マイノリティに優しくしよう]という意味での[多様性を受け入れよう]という言葉にはちょっと待ってと言いたくなります。
    ここで意味する多様性には(王道である)自分は含まれていないように思えるからです。
    本来AもBもCも同じ”価値観”であるからして、多様性の多のうちのひとつであるのにも関わらず、それを無視して少数派のBやCだけ取り上げて多様性と言い放ち、無意識にAを別格化している例が散見されます。
    (例えば最近話題のLGBT、レズビアンやゲイについては学んでも、シスジェンダーやヘテロセクシャルについては学びませんよね)
    そう思いながら読んでいたら、『多様性という言葉は他者を肯定するためのものではなく、自分を否定するためにある』という、まるで多様性という言葉が無くても自分は否定されないかのような、多様性に不寛容な社会で排除されてきた者からすると違和感しかない文章が出てきたので、つらつらと考察してみた次第です。

    長くなってしまいましたが、結局は、
    (自分も書きながらまとまってきたのですが)
    『多様性を受け入れるとか認めるとかいう言葉に違和感』を持つ理由は、
    「多様性を認める」という言葉が文字通りの「”多様である(一様でない)”状態を認める」という意味を見失って「多様な(王道でない)価値観を”正しいものとして”認める」という意味として使われているからではないかと思った次第です。
    ここに「多様だからって正しいわけじゃないよね?間違ってるかもしれないよね?」という側面からアプローチすると、多様な(王道でない)価値観からは「そもそも王道でないってだけで散々間違ってるって言われてきてるんですけど?」と違和感を持たれるのではないでしょうか。

    • 塚田 和嗣 より:

      Aさん

      コメントありがとうございます。
      熟読いたしました。的を射たご返信ができるかどうか自信はありませんが、コメントくださった内容にできるだけお答えしたいと思います。

      まず、記事を書きながら僕自身も違和感を持っていたのは、そもそも「正しいとか間違ってる」で人格や価値観を分けることが違うよな」ということでした。Aさんが「価値観に正しさ(や間違い)を付与することは、多様性の尊重とは別の概念であると思います」と仰ってくれたので、その違和感をある程度固定することができました。

      また、「暴力衝動がある人~」の例による「多様性を認めない社会」「多様性を認める社会」「多様な価値観を無条件に正しいものとして認める社会」の分類も分かりやすく、すっきりいたしました。そして「的はずれだったらすみません」とお断り文を入れてくださっているところは、まったく的はずれではありません。僕の言葉足らずで、前提の共有不足(というか僕自身が前提に違和感を持って書いてる時点で難しい)でしたが、補足していただいた形になりました。

      その上で、改めて自分の頭を整理するとすれば、僕が懸念しているのは「多様性が認められる社会」、Aさんがおっしゃるところの「多様である(一様でない)ことを排除しない社会」においては「ヨソはヨソ」とか「人それぞれ」という言葉でインスタントに他人を理解するという現象が起きるのではないかな、ということです。自分とは全く違う他者を見たとき、多様性という言葉は便利だと思います。「私にはあの人の生き方は理解できない(する気もない)けどまあ人それぞれだからね」という態度が、間違っているとはやはり言えませんが、なんか世知辛いなと思ってしまう。争いはないかもしれないけれど壁はある、みたいな。そうなれば、分かる人だけ分かってもらえば良い、理解してくれる人同士で固まれば良い、ということになるかもしれません。もちろんそれも間違ってるわけではないし自然だと思いますが、自らの正しさを認め合う形で居場所を作ることで、自らの正しさに執着してしまうのではないか、それってけっこう辛いことなんじゃないかと思いました。内輪では認めあえるが、外に出れば排除される訳でもないけど相手にもされないという状況は、アイデンティティが傷ついてしまいそうだと思います。すると認めてくれない他者に不満を抱くようになるかもしれません。反対に攻撃に移るようになるかもしれません。しかしそう考えれば、僕がアイヌの方にかつて取った態度も冷たい。「いることは知ってます。しかし興味はありません。それはアイヌに興味がないのではなく、他の関わりの無い他人と同じように興味がありません」という、おそらくお話ししてくださった方にとっては冷たい態度でした。言い訳をさせてもらうとすれば、僕が反発したのは「迫害にあった」、「差別に見舞われた」という点が不当だとしながらも、そういう過去もアイデンティティの一つとして認めてほしくて、弱い立場なのだから尊重して欲しいと「聞こえた」からでした。僕自身北海道人でアイヌ文化とはある程度親しんでるつもりでしたし、多様な社会に対する理解もあると思っていましたから、もう誰に認めてもらうでもなくアイヌは存在感があるのに、それじゃダメなんだろうか?と思ったのです。その点を指して、「自分は正しいと認められるべきだ」と思うのはやや一方的だなと当時感じたのですが、例として不適切だったかもしれません。

      ちなみに僕の人格や経験に関することで言えば、正当性や価値観が認められなかった経験がないのではなく(強い迫害を受けたことはないですが)、どちらかと言えば一人でも自分の正しさを信じられる方なのかなと思います。僕は王道からは程遠い人間ですし、かといって社会の一部では認められているという存在でもありませんが、僕なりに納得した人生を選んでいると思っています。
      その上で誤解を恐れずに書きますが、「誰にも認められなくても自分は正しいんだ」とみんなが思えて、かつ「自分の正しさに固執しすぎず」、「他者の正しさを否定したりしなくても済むような社会」になれば楽なんじゃないかな考えています。そのためには多様性が単なる許容(別にどんな人がいても良い)の論理ではなく、色んな人を見て、「究極自分(の個性や価値観)だってあってもなくても良いんだよなー」と一歩引いて考えるためのものとして捉えたいなという気持ちがありました。その上で、自分の個性や価値観を満たすためにはどうするか?を考えるのがテーマ、と言えば良いのか分かりませんが、そういう話をするために今回の記事を公開することにしました。
      しかし、これもまだ矛盾を感じるかもしれません。「結局はヨソはヨソ。ウチはウチということを言ってるの?」と言われれば、その通りだと答えるしかありませんが、同時にそれが世知辛い気がすると僕は言うのですから。そこで多分、僕は表現とか創作の力を借りたいみたいなことを言うと思います。「創造でつながるコミュニティ」がどうとか言うと思います。
      何言ってんんだこいつ?と思われるかもしれませんが、またなにかありましたらコメントいただけたら嬉しいです。
      また、この返信を書くことで色々と書きたいことが増えましたので、多分にこのコメントが反映された内容になると思います。
      長くなってしまいましたので以上でとりあえずコメントに対する返信とさせてください。返事として適切なのか自信がありませんし、十分だとは言えないと思いますが、頂いたコメントを参考に引き続き考えていきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。

  2. A より:

    丁寧に返信をいただきましてありがとうございます。

    『内輪では認めあえるが、外に出れば排除される訳でもないけど相手にもされないという状況は、アイデンティティが傷ついてしまいそう』
    確かに。同じ視点から、多様性を認めない社会においては外に出れば『排除』される訳ですから、当然『アイデンティティが傷ついてしま』うのではないでしょうか。不満を抱いたり反撃したくなる可能性も、『排除される訳でもないけど相手にもされない』場合より『排除される』場合の方が高くはないでしょうか。
    という前提のもと、おっしゃることはよく分かります。世知辛くない多様性尊重のためには、否定しないことと肯定すること、肯定しないことと否定することのバランスが大事なのではないでしょうか。普通と違うだけで否定される「排他的で生きづらい」社会、何もかもが否定されない「争いはないかもしれないけれど壁はある」社会、何もかもが肯定されなければならない「歪で違和感のある」社会。そうではなくて、変だと思ったことは変だと言える、嫌いなものは嫌いだと言える、興味がないことは興味がないままに、気になった部分は議論の末に分かったり分からないままだったり、正しさや間違いも各自が各自で思うままに判断できる、そういう”多様性”が血の通った多様性だということでしょうか。

    『「自分は正しいと認められるべきだ」と思うのはやや一方的だなと当時感じた』
    うまく伝えられるかどうかは分かりませんが、ここでもやはり「認める」という言葉の受け止め方がやはりポイントなのではないかと思います。辞書によると、認めるとは、「正しいとして、また、かまわないとして受け入れる。」とあります。「自分を認めて欲しい」という言葉について、「正しいとして」を採用すれば、確かに「自分が正しいと納得して欲しい」と解釈することもできますが、「かまわないとして」を採用した場合は「自分がいてもかまわないと納得して欲しい」と受け取れます。『自分は正しいと認められるべきだ』というのは前者の解釈であり、だからこそ『一方的だ』と感じたのだと思います。しかし、多様性尊重という文脈で読むと、後者の解釈が適切ではないでしょうか。そして、「自分がいてもかまわないと納得して欲しい」に対して一方的だとは思われないかと思います。
    多様性を認めるということは、「”多様である(一様でない)”ということを(正しいとして、もしくはかまわないとして)認める」ということであり、「”多様な(王道でない)価値観”を(正しいとして、もしくはかまわないとして)認める」という言葉ではないはずだからです。これはとても大きな違いです。
    (ややこしくなるので読み飛ばしていただいてもかまいませんが、「多様な(王道でない)価値観をかまわないとして認める」ことと「多様である(一様でない)ということを正しいとして認める」ことは親和性が高いです。しかし、一様でないことと王道でないことは全く違います。この辺が曖昧に認識されているせいで、「”王道でない”価値観を”正しいと”認める」ことが「多様性を認める」ことであるかのような誤用が蔓延しているのではないかと思います。多様性を尊重する立場からすると、「同調圧力かけないでほしい。皆同じにさせようとしたり違う人を排除したりしないでいただきたい」というだけの話なのですが、聞く人によっては「自分達は一般人とは違うから優しくしてほしいってこと?」と斜め上の解釈をされたり「確かに社会的弱者は保護しないと!皆さん少数者に優しくしましょう!」とか言っておかしな方向に進んでしまうこともあります。)

    『「究極自分(の個性や価値観)だってあってもなくても良いんだよなー」と一歩引いて考える』
    このように高みを見ているからこそ、このような文章を書かれたのかなと思いました。つまり、多様性尊重と言われる裏には、社会が「お前は”普通ではないから”排除する」としてきた前提があるわけです。その考えが個人の中にもある程度定着しているので、わざわざ「普通じゃないこと自体は悪いことではないよ」と宣言しなければならないのです(“悪いことではない”というのと”正しいことだ”というのは別の話ですので悪しからず)。
    しかし、そもそもそんなことは分かっていて、「普通じゃないことと正しくないことって何か関係ある?」という考えを持っていると、「なんでわざわざ悪くないなんて言いにくるの?正しいよって認めてほしいの?」という違和感を持たれるのかなと思った次第です。

    またまた長くなりましたが、興味深い内容でしたので少し書かせていただきました。返信ありがとうございました。

    • 塚田 和嗣 より:

      Aさん

      ご返信いただきありがとうございます。
      「変だと思ったことは変だと言える、嫌いなものは嫌いだと言える、興味がないことは興味がないままに、気になった部分は議論の末に分かったり分からないままだったり、正しさや間違いも各自が各自で思うままに判断できる、そいう〝多様性゛が血の通った多様性」であって、そういうのが好みだなと、まさに僕は言いたかったのだと分かりました。「血の通った多様性」とはなぜ自分で思い至らなかったのだと思えるほど落ち着く表現です。ありがとうございます。
      しかしこれだけ言えば「現状と何が違うの?今みんなそうしてんじゃん」という向きもあるかもしれないので念のため付け足させてもらうと、「理解しようとして理解できない」のと、「理解しない」のとでは大きな違いがあって、多様性という言葉を「理解しようとしても理解できない領域があることを知る」ために使うか、「理解しないための方便」として使うかで、自分や世界に対する見方がけっこう変わるんじゃないかなと考えています。その上で、やはり誤解を恐れずに言わせていただければ、理解の外に出たときにアイデンティティが傷ついてしまうのは、「排除される場合」の方が本当に可能性が高いのだろうか、という疑問が個人的にはあります。もちろん、「多様性尊重と言われる裏には社会が『お前は普通じゃないから排除する』としてきた前提」があり、実際に傷ついてきたマイノリティがいるということを意識的に乗り越えた上で言ってるので、排除される方がマイノリティがダイレクトに傷つくだろうことに異論はありません。ただ、Aさんの言う「血の通った多様性」ではなく、極度に形骸化した単なるマナーやモラルとしての「多様性」がもっと社会に浸透した場合を考えたとき、非難されるよりも無関心の方がずっと痛い、ということもあるんじゃないかなと思います。「好きの反対は嫌いではなく無関心」と言ったりすることもあると思いますが、嫌いだ、ダメだと言われればまだコミュニケーションが取れるが、どうでも良いと口に出すでもなく、まるで無いかのように扱われる方がずっと辛い、という現象が増えていくのではないか。それは問題だというより、単純に辛いなと考えています。そういうとき、きっと人は認められる以前に伝える力が欲しい、コミュニケーションのきっかけが欲しいと考えるのではないか。被害妄想的かもしれませんが、その弊害となりうる、コミュニケーションの機会を損なう恐れがある「多様性が尊重される社会」って何なんだろうな?ということを僕は考えているのだと思います。

      脱線するので話を戻しますが、「認める」という言葉に「かまわないとして受け入れる」という意味があることは知りませんでした。当時の僕の幼い態度は、まさに「正しい」として受け入れて欲しいと言われている気がしてたせいだと思いますし、その正しさが社会的にマイノリティである、排除された経験がある、という点に頼っているように見えたせいだと思います。しかし先ほど書いたことを勘案すれば、排除された経験、差別を受けた経験も、悪い記憶だとしても、やはりどうしようもなくアイデンティティを構成する大事な要素の一つで、ただ聞いてもらいたかっただけなのかなと今になって思います。そういう感情に対し、正しいとか間違ってるとかで判断し、論理で向かおうとすることが間違いだったのかもしれません。「普通じゃないことと正しくないことって何か関係ある?」と確かに考えていますが、僕の中に「正されるべきだ」という意識があったからこそ抱いた違和感なのだと自覚しました。

      Aさんにコメントをいただいて、すっきりした部分があるのと同時に僕が何を考えているか自覚していない部分がたくさんあることに気付き、一人では考えられないことなのでありがたいのですが、現在ひどく混乱もしています。ご返信に的はずれな部分や独りよがりな部分がありましたらご了承ください。ゆっくり整理していきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。

      • M より:

        偶然通りがかっただけで、コメントをするのも気が引けましたが、
        深い内容に読みこんでしまい、
        とても感激して、思わずコメントしてしまいました。
        (教養がないため語彙力もなく、
        浅いコメントですが、お許し下さい)

        私はトランスジェンダー当事者でありセクシャルマイノリティの当事者でもあります。

        私自身、マイノリティの人間と自覚するようになってからは、色々考えるようになって(大半は蛇足ですが)
        “多様性”という、掘り下げていくとどんどん哲学的な事になっていくテーマについてこれほどまでに考えていらっしゃることに大変感銘しております。(私は哲学が好きです!とはいえ、かじった程度なうえ、かぶれています。お見苦しい点があるかもしれませんごめんなさい)

        私が拝見させていた限りでは、とても著者様の書かれていることに、一理あると思いました。(「多様性というのは、自分の正当性を確保するためのものではなく、自分を疑うための言葉だと思う。」については、改めて「なるほど!」と思いました)

        ですが、私が思うには、多様性ということを理論で考えようとすればするほど、堂々巡りに陥り、安定した真理は見定まらないと私は思います。(私も散々悩みました)

        多様性というのは所詮は単なる言葉でしかなく、本当に大切なのは”多様性”の使い方の問題(知識、考えるきっかけ捉え方次第でどうとでもなる”単なる道具”でしかないのでは?)だと思います。

        “多様性”とは何か?とても素晴らしいテーマではありますが、行き着く先が価値観や概念である限り(物事には陰と陽があり、コインのような存在で)”たった一つの答え”に行き着くことは決してないと私は思います。

        重要なのはその”多様性”という概念をどうすれば社会の中で成り立つのか?
        社会学を踏まえ(文化や時代、倫理観を踏まえ)”容認するべき価値観”とはなんなのか?だと思います。

        私はシンプルに考えてしまうので(ガサツなだけかもしれませんが)、
        私としての答えは、
        “エンパシー(既にある道徳を基準とし)とモラル(既にある倫理観や秩序を大きく乱すかどうか?を基準とする)のバランスさえ良ければ、何をしても良い”です。
        (“バランス”の答えは社会や時代、民衆、その他諸々によって左右されるため当てはまる”確定した”答えはありません)
        下らないこと言ってしまっていると感じたら本当にごめんなさい。

        そして「「多様性」がもっと社会に浸透した場合を考えたとき…」「世知辛い世の中に…」については、
        確かに、マザー・テレサも言うように「愛情の反対は無関心です」
        とありますが、人間が皆、マザー・テレサのようになるのは理想論かと私は思ってしまいます。

        そもそも、
        多様性という言葉とは関係なく、
        そもそも”人間は世知辛い生き物”だと私は思っています。

        人間は個体である限り、意識(価値観、概念)を100%理解し合うことはできません。

        私の好きな哲学者ニーチェと、物理学者アインシュタインにこんな言葉があります。

        「世界について最も理解が出来ないことは、世界が理解できるということだ」
        -アインシュタイン-

        「人は称賛し、あるいは貶すことができるが、永久に理解しない」
        -ニーチェ-

        私にとってこの言葉は”真理”だと思います。
        ですが、「理解できない」のと「理解しない(その努力をしない)」のとでは違うとも思います。

        “理解する努力を起こさせるきっかけ”としても(または理解できないことを納得するため、良い意味での”諦観”としても)”多様性”という言葉の必要性がそこにはあると私は思います。(私にとって、我がままを言えば、無関心も排除も同等に辛いことですね)

        とても面白いブログでした。
        本当にありがとうございました。

        最後にニーチェの名言の中で、
        私の最も好きな名言でもって、
        最後とさせていただきます。
        (最後まで人のフンドシで相撲をとるような、そして小賢しいコメントで本当にごめんなさい)

        「事実というものは存在しない、
        存在するのは解釈のみである」
        -ニーチェ-

        • 塚田 和嗣 より:

          Mさん

          コメントいただきありがとうございます。ご返信が遅れて申し訳ありません。なぜか通知が来ておらず、確認が遅くなってしまいました。
          いただいたコメント、興味深く拝読いたしました。
          この記事を公開してからしばらく経ち、経験が増え、新たに考えることが多くなったので、いただいたコメントのお返事として適切かどうか分かりませんが、少し吐き出させてください。
          最近自分の中に不思議な感情(もしくは思考)が芽生えました。これまで偏見に晒されてきたという方や、社会的にマイノリティとされる方に対して、偏見や差別の感情が自分の中に無いことを確認して安心する、という感情です。
          Mさんがコメントの冒頭で「トランスジェンダー当事者でありセクシャルマイノリティの当事者」であると書いてくださいましたが、この文を読んだとき、言葉にならないほど意識の底の方でですが自分の中に偏見や差別感情が無いことを改めて確認し、安心感のようなものが湧きました。この話を聞いてMさんは不快な気持ちにならないでしょうか。自己満足であるとか独善的であると思わないでしょうか。僕は自身にそう感じることがあると同時に、偏見や差別を持っている人を軽蔑する気持ちが強くあることにも気づきました。なぜこの時代にまだ偏見で物事を考えているのか、そういう意識のアップデートはできないものなのか、そもそもマイノリティに対する知識が少しもないのか、歳を取るということはそういうことなのか、という怒りの感情すら湧くことがあるのです。しかしこれはおかしいです。僕はそういう軽蔑する誰かに偏見を持ち始めているし、はっきり言って差別をしていると思います。「そういう頭の固い人とはあまり関わらない方が良いな」という風に考えるからです。あれ、今僕は無根拠に自分が正しいとして、他者をジャッジしていないか?傲慢な人間になっていないか?僕のような人間に軽蔑されるのは不快なことではないか?

          「多様性ということを理論で考えようとすればするほど、堂々巡りに陥り、安定した真理は見定まらない」とMさんが書いていましたが、まさにそのことを痛感することがこのところ多いです。
          この自家撞着に納得を求めるため、次のようなことを考えました。
          多様性は「社会」に適用されてもよく、「社会」において機能する。このとき、Mさんの仰るようにこれまでの歴史で培ってきたエンパシーとモラルのバランスによって多様さが調節される仕組みが備わっている。
          一方個人のレベルでは多様であることをただ眺め理解しようと努めることはできても、誰かを虐げたり、判断したり、排除すると少々度が過ぎてしまうことがある。個人のレベルで度が過ぎると社会問題になる。
          このような個人→社会の流れ、そして社会→個人というフィードバック。これを繰り返して僕たちは引き続きエンパシーとモラルを「意識的に」もしくは「技術的に」磨き、少しでもそれぞれが心地よく暮らせるようにしようという言葉にならない約束をするしかないのではないか。

          社会において個人の声が大きくなるにつれて「違い」はどんどん浮き彫りになっていきます。
          性自認や容姿のようなほぼ生まれ持ったものだけではなく、「価値観」や「嗜好」というほぼ後天的に培ったものもあり、多様さに目を向ければ人は結局それぞれ違うということになり、極端なことを言えば人は100%孤独だと思います。
          人間なので許容できるものもあれば目をつぶることができない違いもあって、社会的に問題はなくても隣人であれば害となる性質もある。世知辛い世の中で、他者と何かを共有する以上ぶつかり続ける物事に「多様性」という概念がうまく根付き、機能していけば良いなと考えます。

          おそらく僕はMさんの仰っていることとほぼ同じことを書いてしまっていると思います。
          しかしここまで書いてきたようなことを考えていたところへMさんのコメントを頂けた、ということが伝えられたらなと思いました。
          コメントへの返信なのにも関わらず独りよがりなものを書いて申し訳ありません。
          最後に、Mさんの哲学への造詣の深さが伺えるコメント、大変勉強になりました。
          記事を読んでいただきありがとうございます。

          塚田和嗣

  3. A より:

    ご返信ありがとうございます。

    混ぜ返すようなコメントにも関わらずここまで丁寧に読んでいただきましてありがとうございました。
    また、「多様性を認めない社会」は改善すべきだが、ここから無闇矢鱈に多様性を尊重しようと推し進めることで「世知辛い多様性マナーの社会」に進むのではなく、きちんと多様性のなんたるかを理解した上で「血の通った多様性実現の社会」にしていく必要があるとの趣旨を理解いたしました。
    今後とも記事を楽しく拝見させていただきます。失礼しました。

    • 塚田 和嗣 より:

      Aさん

      一人では空転していた記事ですが、コメントを頂いたことで自分が何を考えているのか、何を伝えたいのかを探ることができました。考えるために書いているブログですので、ご意見を頂けてAさんの考えを聞くことができて大変嬉しかったです。ありがとうございました。

  4. K より:

     興味深い内容だと思い拝見させていただきました。
    その中で自分なりに考えられる意見ではありますが、現代社会における多様性の是非について私が思う事は、良くも悪くも『流行』だと考えています。
    例えば国益と経済という観点から考えてみましたが、近現代特に二次大戦後の日本が現在までに多様性を尊重しようというテーマが上げられるまでには、『全体社会主義による社会経済発展から、個人主義による小規模経済発展』に移り変わったからではないでしょうか。
     終戦直後、雇用から食糧までの生活基盤が破壊されてから、全てを立て直すというそれぞれの意思や社会の要望の中で急激な経済発展から生活基盤の安定と向上、その為に必要だったのがある種後天的な統一思想による底上げの結果だと思います。(目的における利害の一致)
     その結果は後のバブル経済と、バブル崩壊。
    インフレーションしすぎた経済は多くの株式から資産等の売却を通じ一部の権利者が大きな利益を生みだし、他方で大損害を生み出した結果は、多くの人員整理から倒産、又は雇用減少まで行われました。
     今迄の経済発展が何だったのかという岐路に立たされたとき、その原因は前文にある通りですが、その時初めて社会という不確かなモノに大多数の人が、思想から生活まで依存していたのかと気付かされたはずです。
    その後は法整備も加わったことで事業設立のハードル緩和も進み、多くの利益を生み出す可能性(多様性=多少思考に問題が在れども結果が出るのであれば問題はない。)を持つ人材を生み出そうという建前上の形式があるのではと考えます。
    良くも悪くも多様性と言いつつもそこはダブルスタンダード的な話であり、それこそ王道ありきで、何が正しく間違っているのかというのはそれこそ肯定的な結果を生み出した個人や集団ありきである。そうでないものは存在しても構わなければ、存在しなくとも良いという無関心の容認まで繋がっているのではと考えられます。

    最後に、私個人としては上記の様な考え方は好ましい方ではありません。
    それでも何かを思い投稿してしまった背景には、多くのメディア露出度の高い方々が口にし続ける多様性に対する違和感に『流行によって左右される多様性に、そもそも多様性は無い』という事と、そもそも私も誰かも正常な判断等は出来ていないという私的な結論結果に集約されているのではないかと思います。
     下手で苦しい裏付けかもしれませんが、それこそ態々道徳を必須教科として取り入れる位ですので、何が正しい間違っているという判断が、個人ベースで考えられた事ですら誰にもできなくなったという一つの証拠ではないかと思います。

    • 塚田 和嗣 より:

      kさん
      コメントいただきありがとうございます!興味深い考察です。
      多様性について考えるときにも様々な切り口があると思いますが、「国益と経済」の観点から考えた結果、多様性を叫ぶことは要するに「良くも悪くも流行」だと仰ることについて、同意する部分と、失礼ながら、流行という言葉に収めてしまうのは少し物足りないなと感じる部分があります。
      確かに、多様性が叫ばれるようになった背景には、全体主義から個人主義という社会の流れがあり、国益の都合により巧妙に誘導された生活や思想のスタイルの変化があると思います。
      主義と言うと大袈裟だと思うので、それぞれ「みんなで力を合わせて国を盛り上げるために頑張る時代」「個人が自分の立場で頑張ることで結果的に盛り上がった国になれば良いねという時代」と言い換えますが、今は後者の、そういう時代に来ているのだと思います。
      それは国レベルで見ても個人レベルで見ても「生存戦略」であり、この国に一時的に蔓延っている「流行」という捉え方をしてもおかしくはないかもしれません。
      また、この社会における「生存戦略」とは、結局お金を稼げるかどうかに依存しているところが強いのは事実ですから(多様とは言っても結局社会の単純な利益になるものが是とされる傾向にある。もしくは認められた個性には経済がついてくる。そしてお金が無ければ生きていけない)、Kさんの仰る通り、「王道ありきで、何が正しく間違っているというのはそれこそ肯定的な結果を生みだした個人や集団ありきである」という点も同意できます。
      ただし、冒頭で少し書いたように、多様性を考える上での切り口にはバリエーションがあるということを考えると、Kさんが国益と経済の観点で考えたという時点で国益が多様性を評価する絶対的な指標になるという点には注意が必要だと思います。つまり、経済の世界観の中では当然国益になるものだけが是とされるように見える。「そもそも多様性がない」という結論は、ゴールを一つしか設定していないからだと考えることもできると思うのです。
      また、Kさんがご自分で考察した内容について「好ましい方ではない」と仰るのは、考え方というよりはそんな経済的な指標で評価されがちに見える社会そのものに対する嫌悪感であり、多様を叫びつつも社会的に評価され、王道を歩む人たちの声であれば結局はトレンド的な印象を越えず、社会に選ばれた意見が人工に膾炙するのであればそれも国益を目的とした操作に見えるというところにあると拝察しました。
      しかし、多様性が叫ばれる背景には社会において個人化が進み、それぞれが自らの生き方を上手にカスタマイズしなければならないという事情もありますが、同時に人生の価値を評価する指標が多様になったということもあると思います。これは社会から評価を受けるという世界設定から、自分を軸とした自己本位な評価をする設定(つまり個人が世界を評価するスタイル)へとシフトしたということも言えるのではないでしょうか。僕は時代に対してこのような認識があるので、「流行」と言う側面があることは理解しつつも、やはりそれだけでは物足りないと感じます。なぜなら、多様性を考える上で視野に入るのは種族、宗教、ジェンダー、年齢、文化など様々で、全てを経済の指標で評価できるものではなく、また意識的に、恣意的に操作できるものばかりでもないからです。なにより、一国のレベルで語れるようなものでもなくなっています。
      全てが経済を指標にして評価されるのであれば確かに多様性を口にしても空々しいばかりですが、現代ではむしろ、自分が大切にしているものを売ってしまったり、捨ててしまわないようにするためにはどうすれば良いだろう?とみんなで考える時代なのだと思います。そういう点で、個人化の時代と言えども社会性や全体性はあって、むしろ世界がローカル化しつつある昨今においては「全体」のスケールはさらに広がり、お互いに「あなたの大事なものはなんですか?」と問い合うようなコミュニケーションによって世の中が作られていくようになると思うのです。
      頂いたコメントよりもご返信の方が長くなるという暴挙に出てしまいましたが、Kさんの考察が良い刺激になりました。自分の考えばかりでお返事になっているか分かりませんが、僕はこのように考えます。

      塚田 和嗣

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