文章のすばらしさは制限をちょっとだけ越える気持ちに宿るのではないか

いつだったか、「ああ、文章には制限が一番大事なのかもしれない」と唐突に思いました。

例えば俳句は原則17音、短歌は31音で構成されるけれど、名句名歌と呼ばれる作品はきっと、制限の中にあって制限を越えた表現をするからこそ素晴らしいのだと。

たった17音なのに、過去現在未来の流れを感じるとか、重層的な意味や背景に流れるストーリーが見えるとか、そういう目の前に表された言葉以上の何かを感じるときに僕らは感動するのではないか。

ちょっと前に

すごい文章を読めば感じる、見かけ以上の質量について

という記事を書いたのだけど、結局はそれと同じ話を僕はしたいのだと思います。

僕らにはいつも無意識の見積もりや予測があって、それを良い意味で裏切るからこそ驚くのだ。脳みそが見積もりと違う予測と違うというバグに興奮するのだ。

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制限を超えることを意識して、悪い短歌と良い短歌を作ってみる

考えてみれば、僕らはいつも何かにつけて無意識に見積もっているし、無意識に予測してる。

例えば医者にかかったとき、ただ診察してもらって薬を貰っても何も思わない。そんなの普通で、普通であることはしばしば退屈であるから、なんの印象も抱かない。

医者としての領分を越えて、世間話に付き合ってくれたり、大したことはないと思いつつも不安な身体の悩みについて聞いてくれたり、そういう人間的な善意に触れたとき、「あのお医者さんは良いよ」となる。

僕らの脳は、「制限」とか、「当たり前の範疇」を越えるものに触れたときにちょっと活発になる。

文章に限らず、多分なんにしてもそうだと思う。

これを踏まえて、ペットをテーマにつまらない短歌を考えてみようと思います。

「寒い夜ちゃっかり布団に入り込む 気ままな猫と幸せな冬」

絶妙につまんないですよね。別に悪いことは言ってないし制限もとりあえず守っているけど、単語レベルで見ても文章レベルを見ても、書いたものを越える要素が一つもない。短歌ではあるけど短歌でしかない。ちらっと見て風邪だねって言って薬出すだけの医者だ。

この流れで行くと良い歌も例として出さなきゃいけないけど、完全に墓穴掘ってるよね。

がんばれ自分。逃げるな自分。

頑張って制限を超える表現を考えてみましょう。

「早起きの君は自由な騒音だ 夜行性だと聞いていたのに」

どーーーかなあ……。

マシにはなったと思います。

猫とか気ままとかいうそれらしい単語を出すより、後の短歌の方が猫感が出てるはずだし、僕と猫の関係性にもリアルなにおいが生まれるんだ(必死)。

制限を越えよう。見かけより重く、思っていたより深く。

できるできないは別にして、こういうことを心がけることが、文章を書く上では重要なのではないかなと思いました。

闇雲に制限を越えれば良い文章というわけではない

とは言いつつ短歌作るので疲れたからこの記事はもう終わりにします。

注意が必要なのは、ただ闇雲に制限を越えれば良いというわけでもないということです。

医者がいくら親切だからって夜に調子どうですか?って電話かけてきたら明らかにやり過ぎだし怖いです。

そういう場合、脳みそは多分驚きよりも強く不快を感じる。

奇をてらい過ぎたり、長く書き過ぎたりして闇雲に制限を越えるだけでは駄目なんだろう。

あと、そもそも制限や形式が決まってる文章の方が少なくないか?という指摘も忘れるわけにはいかない。小説とかエッセイとか、ブログだって基本的には自由です。そもそも制限なんてない。

でも、それぞれの頭の中に小説ってこういうもん、エッセイってこういうもん、ブログってこういうもんっていう無意識の枠組みみたいなのがあると思うのです。

もしくはタイトルを見て、この内容を語るにはこれくらいの分量が必要だって無意識に頭の中である任意の大きさの箱をそれぞれ作ってると思う。

それを越えようとする意識にこそ、文章のすばらしさは宿るのではないか。

もちろんその想定された箱の大きさは人によってバラバラだから、そういう意味でも特定の誰か一人に読ませるつもりで書くっていうのは重要なことなんだろうな。

文章のすばらしさは制限をちょっとだけ越える気持ちに宿るのではないか(完)

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