松尾芭蕉にたずねる創作論/不易流行は精神論か技術論か

【創作論】自分を消すため形式の鬼となれ

というものを以前書きました。

どんな創作物にも形式というものはあって、それを守ることが大切という普通の話し。

だけど創作を志す人は、自分の持ち味を出したいし、形式化されたものやパターン化されたものをなぞって似たようなものを作っても仕方ないと思ってる。

確かにそう。誰でも何かを産み出すからには、今までにないアッと驚くものを作りたいと考えるはず。

だからって型破りであれば良い、奇を衒えばいいという訳でもないことだってよおっく分かってる。そんなのはただチープになるだけで、全然芸術的じゃない。

こんな葛藤にぶち当たったとき、松尾芭蕉の創作論の一つである「不易流行」を思い出してみましょう。

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不易流行

「不易を知らざれば墓立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず(去来抄)」

不易とはいつまでも変わらないもの、流行とはその時代時代で変わっていくもの。

守るべきところは守り、変化させていくべきところは変化させる。

いつまでも変わらない基本的なことを踏まえないと受け入れられないし、その時代の流れを知らなければやっぱり誰の心を動かすこともできない。

五七五という短く、すごく限定的な形式の中で、人の心に残る句を生みだしてきた松尾芭蕉の言葉だからこそ、重みがある箴言ですよね。

でもそれは創作活動に明け暮れている人たち全てが日々感じていることだと思います。

基本も流行も大事だよなあっていつも普通に思ってる。

だから創作論の話しはここまでで良い。

不易と流行と言う両極端の原理のあいだでもがき苦しむしかないのですから、一刻も早く、一秒でも多くもがき苦しむという結論が全てで、他にやることはありません。

よく勉強して、腐るほど作るのです。

不易流行は技術論か精神論か

「不易流行」とは矛盾を丸ごと飲みこむような、ダイナミックなお言葉だと思います。

基本を守りながら、その時代の新しさを追求していく。

良い創作をする唯一の冴えたやり方は「よく勉強し、よく作る」ということなのでしょう。

しかしふと思ったのですが、この「不易流行」って創作論的には技術論なんでしょうか、それとも精神論なんでしょうか。

これって人によって捉え方って言うか、パッと聞いたときの感じ方って違うんじゃないかなってちょっと思ったのです。

目の前にいる人に同じアドバイスをして、アドバイスを聞いた人はみんな同じように創作を頑張る。

だけどある人は「なるほど!」と思うやいなや古今東西の作品を改め、基本を忠実になぞり、試行錯誤を繰り返す。

またある人はやっぱり「なるほど!」と思うんだけど、初心に返り、原点に戻り、自分にとって、また人にとって創作とは何たるかをよく考える。

つまり、一方は無心になってガリガリと作り、もう一方は心を積極的に観察してあえて何もしない。

こんな両極端の二種類の人間がいるんじゃないかと思うとすこし面白くないですか。

そして、創作においてはどちらもが前進である、と言えるのではないかと思うのです。

不易流行ハイブリットタイプ

不易流行という言葉を聞いたときの心境や状況によっては、こんな考え方もできます。

不易は精神をカバーしていて、流行は行動をカバーしている。

不易流行と聞いたとき、矛盾があるんじゃないかと思うのは、「立ちどまりながら進め」と言われているような感覚が多少なりともあるのではないでしょうか。

基礎の上に応用は成り立つもので、型をよく知っている者だからこそそれを破ることができると言われるとそれらしいし納得はできるのですが、基礎とか基本って一体何のこと言ってるの?と思えなくもない。じゃあ物語を書くときは石に彫り付けた方が良い?いやいや。

最近では流行の流れが激しいから、形式はすぐに古くなり、新しいものはすぐにスタンダードになる。資本主義経済の上に立つあらゆる創作、エンターテインメントが水もので、流れるのが常で、もう何が基本で何が王道で何が元祖で何が古典で何が正統派なのかなんて分からないし消費者にとってはそんなことどうでも良かったりする。

じゃあ不易ってなんだと考えたとき、精神の問題だと考えた方が僕はしっくりくる。

流行ってなんだと考えたとき、それは肉体の問題だと考えた方がしっくりくる。

つまり、精神は動かず変わらず、肉体は常に変化していくというハイブリッド?な考え方。

「不易流行」とは精神論であり、技術論である。どちらかなんて考え方は捨てる。

創作に携わるのであれば、静と動を当たり前に飲みこめる人間になりなさいと言われているような気がするのです。

厳しいきびしい創作の道

文明がいくら高度に発達しても、一向に全然洗練されない人間

って言う記事でもこのようなこと書いたのですが、僕らはどれだけ高度な技術を得ても、精神の部分は全然変わりません。いくら過去に学んでも一向に洗練されないと言って良い。

いつの時代の人も僕らと同じように苦しんだり悲しんだり怒ったりしたし、その分泣きたかったし笑いたかったし感動したかった。

歌の流行は変わるけれど、いつの時代にも歌があることに変わりはありません。

物語のバリエーションは増えていくけれど、物語を求める人の心は変わりません。

人には心があるという事実だけは1000年も2000年もビクともしない岩のようであり、人の常に変わり流れていく姿は一たび吹き抜ければ二度と巡り合えない風のようです。

だけど、僕らはここにも一種のパラドックスを抱えています。

僕らの心は移ろいやすく、非常に脆い。

僕らの体は疲れやすく、なかなか思うように動きません。

創作者という者は、こんな風にどうしようもない人間の一人ひとりの人生を、少しでもまともにする使命を負っていると僕は思う。

そんな大それた立場を志すのであれば、誰よりも盤石な精神と、颯爽と動く体で以って、ひたすら考え、ひたすら作れ、ということなのではないでしょうか。

松尾芭蕉にたずねる創作論/不易流行は精神論か技術論か(完)

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