夏目漱石『こころ』「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」の意味が分かるような日

「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」ってことば、何で知ったんだっけ。

いや、ほんとははっきり覚えている。

夏目漱石の『こころ』。

このセリフの意味ひとつとっても、『こころ』は難しかったけど、読み終えると何かが分かった気がした。

『こころ』ってタイトルに惹かれた学生は多いと思う。

単純でストレートで柔らかく身近で、それでいて深淵で切実な気配がする。

これ以上ないタイトルに思えるけど、大学時代の後輩に、「特に深い意味を込めてつけたタイトルじゃないらしいですよ」って教えてもらって、がっかりしたような、安心したような気分になったのを覚えてる。

夏目漱石が「こころ」というおおきい概念そのまんまをタイトルにしたことにも、ひらがなで表記したことにも、深い意味があると思いたかったところはあるし、まだ思ってるところがある。

二十歳を越えるころ、高校時代には分からなかった「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」の意味が実感できたような瞬間が何度かあった。

同時に、「この実感は誤りだ」と感じた。きっと意味をはき違えてる。こんなに単純なことじゃないはずだと思った。

『こころ』というタイトルをかいかぶる気持ちと同様、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉もかいかぶってるのかもしれなかった。

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向上心を持たない人

「向上心」を持たない人はたくさんいる。

僕もそう。というより、僕は自分の「向上心」を自覚しないし、向上心とは何なのかが分からないままずっと生きてきた。

人並みに向上心はあるつもりだけど、向上しないで済むのならそれに越したことはないと思ってた。最近はわりと向上心が芽生えつつあるけど、まだ自分の向上心は疑ってる。

今よりもっとふわっふわだったけど、田舎から札幌の大学になんか進学して、急にたくさんの人の価値観に触れるようになると、僕はもしかして、向上心が強い方なのか?と思うこともあった。

僕以上に向上心を持たない人はたくさんいた。どうして向上や上達の快感をこれほど避けて生きることができるんだろう?と疑問に思うような人が、たくさんいる。

そういうとき、反射的に、馬鹿だ、と思った。「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」というKのセリフが自然に頭に湧いてきた。

ああ、Kが言ってたのはこういうことだったのか?少なくともこういう気持ちだったのか?と分かって気がした。

そんなにどこに行きたいも何がしたいもなく、自分を疑うことなく、今を疑うこともなく生きていれば、どこかで馬鹿を見るに決まっていると、改めて言葉にするとあんまり辛辣だけど、こんな嫌悪感や軽蔑を抱いた瞬間が確かにあった。

僕の向上心は偽物

だけどある日、大学の同級生に「つかだ君は夢があってすごいね、やりたいことあるってすごいよ」と言われたとき、僕は自分の中に欺瞞があることに気付いた。

え、ゆめ?って思った。そんなのあるって言ったっけ?

僕にやりたいことなんてない。やりたいことがあると言っていた方が、何となく目標を立てていた方が生きやすいから用意しといた、くらいのことはしたかもしれない。

履歴書に書くみたいな夢を用意して、それを目指している大学生を演じてただけで、別に僕は、毎日、享楽的に生きられたらそれが良いと思ってた。消費、浪費、停滞、最高。

でも僕はコミュニケーションが苦手なので「へえ、〇〇さんは夢、ないんだ」みたいな返答をしてしまった。

「んーないんだよねえ」

「そうなんだ」

こんな会話しかできなかった。ちょっと引け目があるみたいな、卑屈な声色だった。

向上心のどうでもよさ

別に夢があるから偉いってわけでもないのに。人生は充実しなきゃならないなんて決まりもないだろうに。やりたいことをやるもやらないも、自分のことを好きになるもならないも、別にどうでも良いだろうに。

ただ、人生の充実を目指して、手探りで達成したりしなかったりして、自分のことを好きでいた方が楽に生きられる確率は高くて、そのためには目標とか理想を持っていた方が楽で……

僕という人間に関する誤解を解くのも面倒、というか、本当の僕の意見なんて別に求められてないと感じた。自分に関する主張ひとつできないほど、僕は現状を打破することに関心がなかった。

「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」っていうKのセリフは頭の中にあったのに、何度かその意味が分かった気がした瞬間すらあったのに、あなたは「向上心」とか「目標」を持っているねと言われると、うわごめん、嘘だわ、持ってない、持ってるフリしてるだけで、持ってないって懺悔したい気持ちでいっぱいになって、ひどくひどく惨めな気持ちになったのを覚えてる。

この、僕の価値観のどうでも良さが、そのまま「向上心」のどうでも良さを表している気がして、そのどうでも良いものを必死で取り繕ってる感じがすごく惨めだった。

本当の向上心を持っているように見えた人

同じく大学時代、「ぼくは向上心のかたまりなんですよ」と言った子が、あるバイト先にいた。

純粋にすごいと思った。向上心があると自覚していて、その通りに行動できるのがすごい。

その子は仕事もすぐに覚えたし、できないことがあると悔しがってたし、勝気だった。料理の道を志す子で、貪欲に色んな仕事をこなしていた。

ぼくはそれなりに頑張ってたつもりだったけど、褒められたら手を抜いたし、怒られたら行きたくないって思うようなダサいバイトだった。

向上心を持って、その通りに行動できる人は強いと思った。

もちろんそれが虚構じゃなかったなんて確信はないけれど、僕の目で見る限り「これが本物の向上心なんだな、向上心のある人はすごいな」と感じた。

もちろん負い目もあった。

ああ僕も、ちゃんとした夢、本当の目標、そういうものが欲しいなと思った。

向上心を取り繕って生きる僕は惨めで弱い

良い大人になって、何となく確信を持てたことの一つに、この、向上心に関することがある。

「たゆまぬ向上心があって、その通りに行動できる人は強い」ということ。

「向上心がないままに生きられる人は本当の向上心を持っている人の次に強い」ということ。

そして「向上心を取り繕って生きる僕はダントツで弱い」ということ。

本当は確信を持っているのはこの「向上心を取り繕って生きる僕はダントツで弱い」だけで、あとのふたつはその裏返しの理屈。

「やりたいこととか、別にないんだよね」っていう人とか、「もっとこうしたい、こうなりたい」とは言いつつもなかなか実行にうつさない人。

「このままじゃダメなんだろうなと思いつつ対策を講じない人」

思いっきり悪意を込めて言えば「現状維持」に甘んじている人。流れやなりゆきに乗ってばかりで、自分の意志を貫こうとしない人。

こういう人を見ると僕の頭の中では相変わらず「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と叫ぶKがいるんだけど、大人になった僕の頭の中では「あんた、死んだやんけ!」と叫び返してします。

やたらストイックで道を究めたいみたいなこと言ってたわりに、自分の向上心を疑ってしまったが最後、自分になんもないような気持ちになって、急にダメになってしまったんと違うんかいって、ちょっと喧嘩腰に、Kの口を塞ぎたくなることがある。

向上心とか、克己心とか、信心とか、そういうもので理論武装しながら生きて、そういうのが通じない領域に足を踏み入れた瞬間、めちゃくちゃ心細くなって、惨めになったんと違うんか、って。

ぼくなんで怒ってんの?という気持ちにもなるけれど、多分それは同族嫌悪なんだと思う。

だって、「向上心があった方が生きやすいからという理由で夢や目標を作り、嘘の向上心を拵えなければならない僕は弱い」ということに気付いているから。そういうの持ってないと不安な僕は惨めだから。

「K」から見た「先生」は向上心を持ってない

向上心を持たないまま生きられる人は、嘘の向上心を持っている人より強いと僕は思う。

Kから見て、「先生」はそういう人だったんじゃないのだろうか。

先生は先生なりに向上を目指し、野心を持ち、考えながら生きていたはずだけど、見る人から見ると何も考えてない、気楽な学生だったのかもしれない。

そこに苛立ちを覚える瞬間があって、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と口走ってしまうようなことがあったなら、きっとKの向上心だって、拵えられたものに違いないと僕は思う。

向上心とか、克己心を持っていないといけない、それを頼みに道を進まなければならないというのは多分弱さだ。

先生はのらりくらりと生きてるように見えたんじゃないか。そのくせ「ちゃんとした向上心」を持ってる自分より思い通りに人生を過ごしてるように見えたんじゃないか。

そういう惨めさに打ちのめされてしまうことってあるんじゃないか。

先生から見た「私」は若者らしい本当の向上心を持っていた

一方、先生は「私」の中にほんとうの向上心を見たのだと思う。

あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私に見せた。そのあなたは私の過去を絵巻物のように、あなたの前に展開してくれとった。私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮をろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのがであった。それで他日を約して、あなたの要求をけてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔にびせかけようとしているのです。私の鼓動った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。

尊敬に近い感情を若い「私」に抱いたのだと思う。

結論を言えば、先生もKも、ひどく弱かった部類の人間なんだろう。

自分から死を選んだ二人です。その点のみを指して弱いというのは乱暴かもしれませんが、人間の弱いこころがそういった行為の発端にあることは間違いないと僕は思う。

本物の向上心もなく、かといって向上心を持たずに生きられるほど享楽的でもなく、日々取り繕って生きてる二人が恋をして、崩れて崩れてしまったという話が『こころ』なんだろう。

そしてその「こころ」は、きっとみんな同じように持っている脆いアレのことなのだとも思う。

『こころ』における相対的な向上心と二つの意味の「運命」

僕が注目したいのは、向上心とか克己心とか信心とか、とにかく「こころ」のつくものすべて、結局は相対的なものであって、たまたま己が惨めに見える組み合わせが、出会いが、成り行きがあるのだということ。

『こころ』を読んでる間、そこはかとなく感じるのは、「ああ、Kが先生の下宿してる家になんて来なきゃよかったのに」ということで、「先生と私が海で偶然逢ったりもしなければよかったのに」ということ。

Kを呼んだのは先生だし、私は先生にしつこくつきまとった。

偶然とは言え、どちらの出会いも意志の介入があった。本当にただ巡り合っただけであれば始まらなかった関係だった。

本当に偶然の出会いはと言えば「先生」と「奥さん」の出会いであって、それは本来であれば「運命」と甘い名で呼んでよかったもののはずなのに、Kの介入と私の介入によって、そちらの、過酷で容赦ない「運命」に飲まれてしまった。

そういう絶望感が『こころ』にはあるのだと感じている。

「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」って言葉はとても印象的だけど、高校時代に読んだ『こころ』の中でも特にこのフレーズを覚えている理由は、ことあるごとにこう叫ぶKがいるからだと思う。

もしくは、Kの胸をえぐるように先生が同じ言葉を言い返したシーンもよく思い出す。

物語の中で二人とも自ら死を選ぶのだけど、この「言葉の暴力の掛け合い」は、恐ろしいことに、自分のこころの中で起こることだった。

人を馬鹿だと思った同じ頭で、自分は馬鹿だと思う。

誰かを惨めだと感じた同じこころで、自分は惨めだと思う。

そういう経験の蓄積が、『こころ』に収れんしていく。

『こころ』があって良かったと思う。知ってて良かったと思う。

この物語を知っているかどうかで、僕の得体のしれないつらさや惨めさのやりどころが変わっていたと思うから。

青空文庫で読めます。

『こころ』

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コメント

  1. 管理人だっさ より:

    向上心のないお前が1番ダサい