小説という表現法が優れているかどうかは分からないけど、自分に合っている気がする

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「小説とは何か」を具体的に考えるための25の質問

この記事は上記25の質問の4問目「他の表現法と比べて、小説の優れた点はどこだろう?」の回答です。

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小説という方法に優れた点はあるだろうか

小説という表現法の優れた点を見つけることができません。

しばらく考えたのですが、なかなか出てこない。

とは言え小説という方法に何も希望を持っていないか、思い入れはないかと言われたらそうとも言えず、この煮え切らない思考回路の裡に何があるんだろうと考えています。

そのあたりについて、ゆっくり言語化していこうと思います。

別の表現法を持っている人が羨ましい

小説という表現手法の優れた点はどこだろう?

絵を描ける人、歌を歌える人、写真を撮る人、などなど、いろいろな表現方法があると思うけれど、どれもうまくできない僕は、それらの表現法を持っている人にあこがれます。

特に漫画家はスゴイなと思う。ストーリーを考えるだけじゃなくて、絵まで描く。表現という世界のあらゆる能力を要求される上級職だという感じがする。

絵を描けと急に言われても描けないし、歌を歌えと急に言われても自信がないけれど、小説を書けと言われれば特に抵抗はない。

たぶんその抵抗がないとか、自分と親和性があるという一点に頼って、小説という表現法に縋りついているにすぎないと僕は思います。

だから小説という方法が、他の表現法に比べて優れていると思っているから小説を書くわけじゃない。小説という方法こそが正しい、小説でしか真理が表現できないとは思っていない。

小説がしっくり来るだけ

小説という方法が自分に合っているとしか言いようがありません。合っているからと言ってうまくできるかはまた別の話だけど、少なくとも抵抗がなく、強制されなくても書きたい気持ちが湧いてくる。

村上春樹著『職業としての小説家』という本に、以下のような文章がありました。

僕は思うのですが、小説を書くというのは、あまり頭の切れる人に向いた作業ではないようです。22p

このあとも適当に省略して引用させてもらいます。

小説を書く――あるいは物語を語る――という行為はかなりの低速、ロー・ギアで行われる作業だからです。22p

小説家は多くの場合、自分の意識の中にあるものを「物語」というかたちに置き換えて、それを表現しようとします。もともとあったかたちと、そこから生じた新しいかたちの間の「落差」を通して、その落差のダイナミズムを梃子のように利用して、何かを語ろうとするわけです。これはかなりまわりくどい、手間のかかる作業です。22~23p

ロー・ギアで行われる作業というのが僕には大変しっくりきました。

大人になるにつれて、僕は人と比べて思考が随分ゆっくりだということに気付きました。

もちろんそれは日常生活において、残酷なまでに「愚鈍さ」として表に出てしまうこともありますが、何より「割り切れない」、「飲み込めない」という症状として表れます。

それじゃただののろまですが、良い面に目を向けると、僕は比較的根気強く、心はダイナミックな刺激は必要としない省エネ設計になっているという特性があって、この点が小説という表現手法とマッチしているのではないかと思います。

小説という方法と、食事のペースは似ている

割り切れないとか飲み込めないとか考えているうちに、小さい頃、僕は食事をするのが大変苦手だった、ということを思い出しました。

そしてこの苦手な感じを説明することが、ロー・ギアで、回りくどく、物事を理解するのに時間がかかるという事柄をうまく説明できる素材な気がしてきました。

僕は幼い頃、元来の神経質な性格もあって、特に多くの人がいる中では食べ物を美味しく食べるということができませんでした。

まず食べ物を口に頬張るのが苦手で、一口は大変小さかった。通っていた保育所では給食を残してはいけないルールになっていたし、食べ終わるまで遊ぶことができませんでした。

食べるのが遅い僕はいつもたいてい一人になってしまいます。

先生が隣で僕が食べるのを見ているのですが、僕がおかずを箸でわろうとすると「そんなの一口で食べなさい」と叱られました。

それで無理やりに口に頬張ると、飲み込むタイミングが掴めず、焦って、気持ち悪くなってしまって戻してしまいました。

一度に口に入れられる量と、飲み込める量には限度がありました。それを越えて、早く食べよう、いっぺんに口に入れようと思うと身体が拒否反応を起こしてしまうのです。

現実に僕の精神に取りいれるものにも、適切な量とペースがあります。この量が大変小さく、ペースは大変遅い。小説を書いていても、いつまでも同じことを繰り返し考えていることが自分で分かります。

「遅さ」と小説という表現法が合っている感覚

今考えれば、僕は当時弱かったけれど、それは頑ななまでのマイペースだったのだと思います。

今でこそ僕は僕のペースで生きることができているけど、幼い頃は周りをペースを合わせなければならないという焦燥に駆られて失敗することがよくありました。

目まぐるしいスピードにはついていけないし、あまり激しいものは受け付けないような気がします。

僕は足が速いし(今は全然自信ないけど)、辛いものも好きなので生活のすべてにおいてそうというわけではありませんが、「現実」の処理速度は大変遅く、現実の些細なことが激しく見える気がします。

そんな性質を持っているからこそ、小説というロー・ギアで運動するものが表現手法として合っているのではないかと思います。

つまり、繰り返しになるけれど、小説という方法が優れているから採用しているのではなく、僕のペースに合う気がするというだけ。

先ほども紹介した『職業としての小説家』で村上春樹は富士山を見る2人の男の例を出して小説家の「遅さ」を説明します。

要領の良い男はある角度から一目富士山を見て、富士山とはこういうものかと納得し理解する。しかしもう一方の男は、見るだけじゃ分からず、自分の足で登って、へとへとになって、それでようやく富士山というものの形を理解、もしくは一応腑に落ちる状態になる。

小説家という種族は(少なくともその大半は)どちらかと言えば後者の、つまり、こう言ってはなんですが、頭のあまり良くない男の側に属しています。実際に自分の足を使って頂上まで登ってみなければ、富士山がどんなものか理解できないタイプです。というか、それどころか、何度登ってみてもまだよくわからない、あるいは登れば上るほどますますわからなくなっていく、というのが小説家のネイチャーなのかもしれません。そうなるとこれはもう「効率以前」の問題ですね。どう転んでも、頭の切れる人にはできそうにないことです。28~29P

自分の「遅さ」に嫌気が差すことも多かったですが、これを読んでちょっと勇気が出たというか、それこそ一応「腑に落ちた」のでした。

数ある表現法の中から「小説」を選んでいる方は、少なからずこの「遅さ」に心当たりがあるのではないかと思います。

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