テッド・チャン『息吹』という小説の中に『偽りのない事実、偽りのない気持ち』という短篇があるのだけど、そこにはあらゆることが自動で「記録」される世界が描かれておりました。
イメージとしては、自分の目が常にオンラインに接続されていて、自分が見たもの、聞いたものがすべてオンライン上に自動で記録されるという感じです。
だからその世界では、「記憶違い」というものが完全になくなる。
そんな世界のお話です。
この記事では『偽りのない事実、偽りのない気持ち』を読んで考えた与太話を書きますね。感想とかレビューじゃなくマジで与太話です。
僕らは「記録」させられている というテーマです。
意志を介在しない記録
さて僕らいまのところ、何かを「記録しよう」と思わなければ記録はできないですよね。
現状、記録には誰かの意志が介入しています。基本的には。
ただ、現状みんな一台ずつ綺麗な映像が簡単に取れるスマホを持っていることを考えれば、「記録する」労力はものすごく小さくなってる。
「記録する労力」が今後もっともっと小さくなれば『偽りのない事実、偽りのない気持ち』のような世界にもなるかもしれない。
そういう世界に感じる恐怖って何かっていうと、「記録する」のではなく「記録されてしまう」もっと言えば「記録させられる」という風にゆっくりとシフトしていくことです。
あ、『偽りのない事実、偽りのない気持ち』がそういうう未来のディストピアを描いた作品というわけではないです。この作品はもっと現実的な、深みのあるお話なので機会があったらぜひ読んでみてください。
記録する労力が今後もっともっと小さくなっていくのは確実
じっさいに記録する労力って今後もっともっと小さくなっていくと思います。
それこそコンタクトレンズ型のカメラとかってそのうちできそうだし、できたらできたでけっこう便利だと思う。
誰かの視線をそのまま見られるとしたらものすごく興味ないですか?
「目は口ほどにものを言う」って言うし、たぶんその人が見ているものを丸まんま見ることができたら、きっと思ってるよりずっと多くのことを知ることができると思います。
こういうことを考えながら「はっ!」と思ったのが、タイトルの 僕らは「記録」させられている という観念です。
技術の発展に伴って記録が容易くなった。より鮮明な記録を、より簡単に残せるようになった。
それは喜ばしいことだと思うけど、そもそも僕ら、記録する喜びを植え付けられてるんじゃないか?と思うのです。
誰に?という話だけど、それはたぶんいわゆる「神」のような、巨大な存在なのだと思います。
僕らはきっと何らかの理由で自分の人生の細部に至るまで「記録」するように仕向けられている
ぼくは宗教的に神様の存在を信じているわけではないんだけど、「人の人智を越えた巨大な存在がいる」という話にはロマンを感じます。
「大いなる意志」的な。
だからすぐにこういう発想をしてしまうのだけど、僕らはきっと何らかの理由で自分の人生の細部に至るまで「記録」するように仕向けられている。
今はまだすべてを記録するという段階には至っていないけれど、『偽りのない事実、偽りのない気持ち』の世界みたいにすべてが自動で記録される世界ができる可能性はある。
さっきちょっと書いたコンタクトレンズ型カメラとかが人のみならず動物の視線まで記録するようになって、おまけに人工衛星など既存のシステムも総動員で、文字通り地球上で起こることすべてが記録されるようになるってことも考えられるんじゃないか。
そして僕らはそれをある程度興味深々で、好奇心全開で、喜ばしいこととして受け入れると思う。
だけどそれが誰かの意志だったら?それはちょっと怖いけど、面白い話だと思いませんか。
全知全能の神が僕らを作ったのではなくて、僕らがこれから全知全能の神を共創する
地球上で起こることすべてが細部に至るまで記録される未来に向かってテクノロジーが進んでいるように思えてならない。
そしてそこには誰かの意志がある。僕らは自分の意志で記録しているように思いながら、実は記録させられ続ける。
すべての記憶、すべての経験、すべての視線が記録となって、一個の巨大な脳(それは地球でもないな、きっとオンライン上に構築された虚地球とでも言うべきものだな)に蓄積されるイメージ。完全なる共有。自他の境界の崩壊。そこにアクセスできる誰かは文字通り全知全能の神。
つまり、全知全能の神が僕らを作ったのではなくて、僕らがこれから全知全能の神を共創するのではないか。
ただし、そうやって全知全能の神を作り出すことを仕向けた誰かが存在しているとすれば、その誰かこそが神である、というループ現象が起こるのだけど……ってことをつらつらと『偽りのない事実、偽りのない気持ち』を読んで考えてました。
この話にはまだ続きがあるのだけど、長くなるし取りとめがなくなるのでまた今度書きます。
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