判を押したような生活の中の変化を好む人間

発想と行動を記録する

自分は判で押したような生活の方が好きなのだと気付いたのは、オーストラリアで暮らしているときでした。

オーストラリアで引きこもり。旅のノートは小説のプロットでいっぱいだった
ワーホリ中の根無し草だった半年間、ぼくは自分のまちのことをばかり考えていたという記事を書いたのだけど、その当時持ち歩いていたノートをめくってみると、小説のプロットがたくさん書いてありました。いや旅のこと書けやって思ったけど、多少どこに...

毎日新しい出会いがあり、新しい土地も自由に冒険できて、それなりに困難とか、感動とかいろいろあったワーホリ生活でしたが、僕は自然に自分の生活のルーティンを作り上げ、後半には、気付けば毎日同じような生活を繰り返していました。

かつ、それが非常に心地よかったし、もう一度ワーホリに行くとしたらまた、今度は最初からあの生活を送りたいとすら思います。

「判で押したような生活」と言えば印象としては「退屈」に見えるかもしれません。

確かに傍から見れば退屈そのものだと思う。

しかし退屈を好むという訳ではなくて、もう少し正確に言えば、「判で押したような生活の中にある変化」を好んでいるのだ、楽しく思うのだ、と思います。

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同じ場所で同じことを繰り返しているつもりで、実はすごく大きく動いてる

仮に「判で押したような生活」ができたとしても、次第に次第に少しずつ、物事は変化していきます。

自分以外の物事もそうだし、自分自身も少しずつ変わっていく。もちろん、定期的に大きな変化や不慮の出来事が訪れることも避けられない。

仮にそういう不慮の出来事や大変化を度外視したとしても、微動ではあるし誤差ではあるのだけど、一周二周と繰り返すごとに必ず微妙に違う軌道を描いて、なぜか前進していたり後退していたりする。

太陽系の動きに似ているかもしれません。

僕ら毎日太陽を中心に同じ場所、同じ速度で自転と公転を繰り返しているようで、実は太陽系という範囲のレベルで位置を変えていて、俯瞰するとものすごくダイナミックに立ち位置が変化している。

以下の動画のイメージです。僕らの生活はこんなダイナミックな動きではないにしても、イメージとして、僕ら同じ動きを繰り返してるようで、実は思っているよりもっと大きな範囲で動いてしまっている。

The helical model – our solar system is a vortex

「判で押したような生活」を繰り返していても、必ず変化する

「判で押したような生活」を繰り返していても、必ず変化します。

「判で押したような生活」が好きだと言う僕のような人間は、その同じような毎日の中にある極小の変化を見るのが好きで、そういう柔らかな変化というか刺激が心地よいと感じるタイプなのだと思います。

反対に、新しい人との出会いとか、知らない国での未知の体験とか、そういうものは刺激が強すぎてしまう。有体に言って疲労と消耗を感じる度合が強く楽しめず、処理が追いつかないオーバーヒート状態になってしまう。

毎日行くコンビニの店員さんの仕草の変化とか、子どもが少しずつ重くなっていくとか、そういうのにじんわり幸せと好奇心を感じる。

もっと分かりやすいことで言えば、毎日少しずつでも本を読めばいつの間にか残りページが少なくなっているし、こうして雑文を書き続ければアクセス数が変化したりする(残念ながら増える一方とはいかない。それも一興)。

今の願望は、もっともっと日々の不確定要素とか、イレギュラーな出来事とかが減って、淡々と淡々と、毎日同じことができますように、ってこと。

何をするにも意思が弱いし、赤子がいるしでめちゃくちゃ難しいけれど、僕の幸せには必要な要素に違いない。

 

 

 

 

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