怒りを鎮めるために考えたこと/「怒り」は相手にされないことが多い

発想と行動を記録する

怒るのはズルいって感覚があります。

怒ったもん勝ち。先出しじゃんけん。

怒った時点でこちらが圧倒的に有利に決まってる。

先制攻撃をしたようなもので、相手はその攻撃に対してどう出るか考えなくちゃならない。

先にグーを突き出すわけですから、相手はパーを出さなきゃならない。つまり、怒り返すとか、強く言い返すみたいなアクションが必要になる。

でもそもそも闘志がない状態では、パーを出して勝ちに行くのもしんどくないですか。

「試合に勝って勝負に負ける」みたいなのがみんな嫌だから、あえて負けに言ったり、アイコに持っていって宥めすかしたりして、あまり「怒りのグー」に取り合わないようにしてる人が多いと思う。

つまり、日常ではたいていの「怒り」が相手にされない。そして「相手にしない」という行為で以て人として勝つという道を選ぶと思う。

多くは日々闘志を燃やしてるわけじゃないからほとんど怒ったもん勝ちなんだけど、だから人として、怒ったら負け。

怒って物事が思い通りに進むこともあるかもしれないけども、それは相手にされていないからなので虚しい。

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怒りを鎮める

こんなことを考えた背景には、僕の「怒り」があります。

こないだちょっと嫌なことがあって。

あるお店ですごく時間を無駄にしてしまったのです。

時間だけでなくお金も無駄にしました。

詳細は書かないけれど、お店を名指しでブログにでも書いてやろうかって思ったくらい。

だけど怒って良いことなんてマジで一つもない。

損の量にもよるし場合によっては怒らなきゃいけない場面もあると思うけど、今回はそれほどムキになることではない。

勉強代ということで納得できないこともない。

とは言いつつ心の中でははっきり怒りの感情が湧いてくるし、妻とはネチネチ「あれはねーわ」って話をしたけど、なんとか腹の底に収めることができたと思う。

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どうして「怒り」をぶつけなきゃ気がすまないのか

どうして「怒り」ってぶつけなきゃ気がすまなくなるんでしょうかね。

怒りの沸点は人によって違うだろうけど、怒りの感情を抱いたらそれを思い切りぶつけたいと考えるのはみんなある程度一緒だと思う。

自分を怒らせた代償を払ってもらわなきゃ気が済まないという気分になるのはどうしてなのか。

日常レベルの怒りなんてたいていが抱くだけ無益で、無益どころか怒りに囚われている時間が無駄で損であることは明確なのに、僕ら怒りという感情は持て余していつまでも手の中でこねこねする癖があるように思う。

囚われてしまうのはどうしてなのか。手放すのが難しいのはどうしてなのか。

怒りを鎮めるとか言いつつ、こうして怒りについての記事を書かなければ気が済まなかったのも「怒り」の表れ方の一つなんだよなあ、と思う。

 

 

 

 

 

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