一事が万事塞翁が馬の人生の中でなにを選び、どう生きるかを考える時代の文学

発想と行動を記録する

新型コロナの流行のせいというのは何だけど、「新型コロナという存在がない状態」がイメージできなくなるほど世の中にこの病気が蔓延って以降、ブログで何を書くべきなのか分からないという問題に直面し、はっきりと更新が滞っています(コロナが流行る前から滞ってたんだったかな?)。

なんか何を書いても場違いな気がするし、こういうときに未来や机上の空論を考えるのはひどく浅ましい気がしてしまうのです。

しかし全国に自粛要請が出されたころくらいから、不思議なことにこのブログのアクセスは伸びていて、だからこそちゃんと更新しなきゃなと思うのですが、今はなんだか上手にできません。

今日の記事はこの言い訳だけでも良いくらいなのですが、やっぱりブログを書くのは好きなので、今何となく考えていることを臆面もなく書いてみたいと思います。

とりあえずのとっかかりは、「両極端な生き方」ができるって大勢の人が気付いたんじゃないかって話からです。

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人と関わりながら人と関わらないという明らかに矛盾した二つの概念

両極端ってここでは何と何かというと、人と関わりながら人と関わらないという明らかに矛盾した二つの概念です。

実生活において必要なことをできるだけオンラインで行い、一方で「カラダ」に近いことは徹底的に深く、直接、体で関わるという生き方。「他人との接触の濃淡を自分でアレンジすること」に向ける関心が強くならざるを得ない。その結果、両極端な生き方をする人が今よりもっと増えそう。

もちろん、誰もがみんなこの両極を取れるわけではないし、取るべきでもないかもですが、この道に適正がある方はこれを機にかなり本腰を入れてこの両極の概念を自分のものにするのではないかと思うのです。

買い物だけでなく仕事(経済活動)もしようと思えばオンラインで済む部分がかなりあることに多くの人が気づいた。また、半強制的に体と時間を持て余したら、家の中のこと、家族、自然と言った身の回りの世界をリアルに形作るものの質感を肌で感じる機会が多くなったことに気付いた。

そしてそれはうまく回る場合に限りかなり快適なものであるということに気付いた人が増えたと思います。

例えば家族の会話が増えること、季節に伴う気温の変化を感じること、食事を作るのに時間をかけること、ゆっくり芸術を鑑賞すること。

もちろん今は生活が大変な人がたくさんいると思うけれど、僕のブログのアクセスが増えているのを見ると、意外に時間を持て余して、ちょっと久々に本でも読んでみようかなとか感じてる人ってけっこういるのかなと思うのです。

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一事が万事塞翁が馬。まじで。

何が言いたいかと言うと、僕が思ってるよりみんな穏やかに現状を受け入れ、堅実に辛抱しており、あーだこーだ、ああでもないこうでもないと考える人が増えてるんじゃないかということです。

つまり、「自分と向き合う」時間が増えた人が多くなったに違いない、という予想が僕の中にあるわけです。

その答えが僕のブログにあるとは思えないけれど、少なくとも僕は自分と向き合うことを大きな目的の一つとしてこのブログを更新しているし、実際このブログに書いたことを足掛かり手掛かりにして実生活での行動を決めてきたという感覚があります。

そうして取ってきた行動が正しかったのか、間違っていたのかは分からないし、これから正しくなるのか、間違うのかも分からないけれど、今回のコロナの騒動でもっとも強く感じたのは、自分の考えが及びもしないところから、僕らの人生はひっくり返ることがある、ということです。

一事が万事塞翁が馬

マジで。これほんどマジなんだ、って思いました。昔から分かってたことなんだ。何がどう転ぶか分からないし、どんな不遇が功を奏すか分からない。

よって、自分の選択が間違ってるとか、自分の行動が理にかなってるとか、そういう評価をするのはほとんど無駄で、僕らは常に大事なことを「こころ」で決めて、「こころ」で納得しながら、生きている限り生きるしかないということを強く感じました。

【ここから蛇足】僕らはほとんどのことを自分の力で選べない。だけど否が応でも「自分で選ぶ領域」が増える

蛇足だけどもうちょっと書いて良いだろうか。

今回の新型コロナ流行が、人々の心の底にどんな心境の変化を芽生えさせて、どれだけの人がその微かな変化を言葉にしようと悶々とするだろうか、って話。

僕はここぞとばかりに「物語」の存在意義をここに書く。「物語」とか「小説」とかの存在意義を語るのは、それ自体がもう負けみたいで嫌ではあるんだけど、人に伝えるべきだと思うから書きます。

僕らの人生は正しいか間違ってるかは分からないです。何がどう不幸を招き、何がどう功を奏すか分からない。あらゆることが結果論で、運の問題でしかないだけでなく、実際僕らはほとんどのことを自分の力で選べない。

自分の人生は自分で選んでいるつもりかもしれないけれど、僕らの人生のほとんどは選べないものがベースになってる。

生まれる国を選べるか。誰から生まれるか選べるか。学校だってたいていそこかここかくらいの選択ししかないんじゃないか。職場は?結婚相手は?使ってる携帯のキャリアは?そのキャリアが提供するサービスだって、自由度が高いように見せかけてほとんど一択だったんじゃないか?

僕ら本当は、選べるものがすごく少ないし、本当に何かを選ぼうとすればかなり勇気を奮うことになる。そうじゃないだろうか。

だけど今後、僕らは否が応でも「自分で選ぶ領域」が増えると思います。

文学の「判断しないというやり方」で肯定する力強さ

そして勇気を出して選んだ人生とか、人生と言っておおざっぱすぎるなら住む場所とか、働き方とかそういうものをここで改めて、大きな視野で、かなりフリーに選んだとしても、それが正しい道なのかどうかまったくわからないまま生きなければならない。

当然すごく不安です。何かを本当に自分の意志で、誰の操作もなく選ぼうとするととてつもなく不安。だけど今後は感染症の不安と入れ替わるようにして、そういう不安と戦わなければならない人が増える。

そういうときに僕らがするべきことはなんだろう。

何かを選んだとき、多くはきっと誰かに太鼓判を押してほしくて、言ってしまえば誰かに操作してほしくて、その道の先を行くインフルエンサーのコンテンツを、まるで神託を仰ぐみたいに見て聞いて、自分は間違ってない、自分は正しい、前進していると日々言い聞かせて生きることになる。

そうして選んだはずのものから実は選ばれる存在(ターゲット)に成り下がって、他人の養分になる。

誰も先のことは分からない、何がどう転ぶか分からない、正解なんてない。

僕らはこのことを学んだはずだから、何より重要なのは、自ら選んだ、もしくは選ばざるを得なかった道で納得する力であり、過去も未来も度外視して、正しいことをしているとも間違った道を進んでいるとも断定しようとせず、答えを出さないまま今を生きる胆力だと思う。

そしてその納得する力、答えを出さないまま今を生きる胆力こそが、作り話の力なんだと僕は思ってます。

自分がこれを選んだ理由とか、自分がここにいる意味とか、自分が為すべきこととか、そういうの、自分の中で作って、勝手に納得して、満足して、最後まで生き続けるしかない。それはフィクション。

思い込みでいいし、フィクションで良くて、むしろ他人のジャッジが入り込む余地のないくらい強固な虚構が僕ら1人ひとりに必要なんだと思います。

そういう目で文学を見ると、まさに作家というのはその道のエキスパートだと感じます。ぼくらのままならない人生の、様々な場面の相似形を、言葉を尽くして、精緻に作り上げ、判断しないというやり方で肯定する力強さがある。

こういう風に「文学」を肯定することがちょっと矛盾になってしまうのが辛いんだけど、今はこころからそう思うのです。

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