一周すると景色が変わっている、一周すると考え方や行動が変わっている、というのは、物語の一つの型です。
一周ってなんのこと?と思うかもしれませんが、それは主人公にとっての一連の旅のこと。
はじめに見た景色と、旅を終えてから見た景色は、客観的にも主観的にも同じはずなのに主人公にとっては変わっている。
これは成長であり、克服であり、変化です。物語とはそれを見せるものでもあります。
僕らの日常は大して人に話して聞かせるような波乱に満ちたものでもなければ、面白おかしいものでもないかもしれません。語るほどのものじゃない。
しかし、大人になってからは本当によく思うのですが、毎年毎年淡々と生きているつもりなのに、去年と違うと感じることが増えた。
僕らは同じ生活圏で淡々と暮らしていても、日々成長していたり考えが変わっていたりして、去年とは違う景色を見ているし、違う行動を取っていたりする。
やはり語って聞かせるほどのことではないのですが、僕らの日常は十分物語性を秘めている。
この記事ではそんなお話しをしたいと思います。
けいおん!の1話目と最終話のあるシーンを比べてみる
一周すると変わる景色や行動。主人公の成長や変化の例を具体的に挙げた方が良いかもしれません。
例えば僕がとても印象に残っている表現に、アニメ「けいおん!」のあるシーンがあります。
主人公である平沢唯が、初回と最終回で同じように学校へと急ぐシーンです。
1話目では寝坊したと勘違いして、最終話では学校祭での演奏に使うため愛用のギターを家に取りにいきます。
どちらも慌ただしく走って家を出ようとするのですが、一話目では部屋を出たところで激しく尻もちをつきます。しかし最終話では、同じように足元が覚束なくなるのですが、グッと踏ん張って転ばない。
視聴者はここで頼りなかった平沢唯の成長を分かりやすく知ることになります。
もちろん、一年で脚力が成長した、という意味ではありません。あくまで表現として、はじめは失敗に終わったことが一連の旅(軽音部での活動)を経て結果が好転した、ということ。
今他にパッと例が思い浮かばないのですが、アニメやゲームではとても多い表現手法だと思います。
日常は物語性を帯びている
翻って僕自身の生活を顧みても、こんな些細な変化を感じることがあります。
一例を挙げるとすれば、今年の冬囲いを気付けば一人でやり終えてたこと。
庭の冬囲いにはいつもかなり苦労します。
そういえば一昨年(今の家に越して始めての冬囲い)では近所の方や母に手伝ってもらったし、木を縛り上げるのに妻と二人がかりだった。去年は妻と二人で、そして今年は一人でやり終えてた。それも早く、我ながらキレイにできてる。
いつの間にか冬囲いが大それた労働じゃなくなっている。
これは傍から見たら大したことじゃないはずですが、僕個人としては大変化です。平沢唯が尻もちをつくかつかないかくらい些細なことですが、僕個人にとっては大変化に違いない。
この変化について、僕はわりと意識的に説明ができる。誰に何を教えてもらったからこういう風にできるようになって、あの人がこうやってるのを見たからそれほど力を使わずに木を縛ることができた、という風に説明することができる。
それを実際に説明するかどうかは別として、つまり物語るかどうかは別にして、僕の中に物語れることがある。
日常は物語性を帯びている。
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