劇団四季の『ライオンキング』で感動して、人為は美しいと思った話。

好きな作品と雑談

刻一刻と移り変わる空の色を眺めながら、こんなことを考えた。

世の中は自動的に動いている。

青空が夕焼けのオレンジ色に変わって、紫色の帯が生まれ、そして濃紺の夜がやってきます。

夜になれば月の黄色が濃くなりながら天穹の輪郭に沿って昇っていきます。

同じように小さな星々も規則的な軌道を描いてうまいこと毎日空に張り付いています。

世の中はカラフルで、自動的で、精密で、複雑である!

耳を澄ませばカチカチカチといった機械仕掛けの音が聞こえてくるようで、歯車の連なりと重なりで丸い地球はできているのだと思えなくもない。

そんな風に考えていると、道を行く人々も自動で動いているんじゃないかと思えて仕方ありません。

だって、太陽が僕の意思で動いているわけではないように、僕以外の誰かも僕の意思で動いているわけではないからです。

本人は本人で意思があって動いていると思っているのかもしれないけれど、僕から見た誰かはあくまで自動的に動いている。

勝手に起きて、勝手に通勤して、勝手にごはんを食べている。

そうかそうか、世の中は自動的なのだ。

例えば、僕は自分の意思であれこれやっているように見えるけれど、僕だって他人から見たら自動的に動いているように見えるだろう。

このブログ、僕はそれなりに意思を持って、頭を使って書いているつもりだけど、誰かにとっては自動的に更新されているように見えなくもないはず。このブログを読む誰かにとっては、その人の意思とは無関係に、この記事は更新されるのだから。

つまり、誰もが自分以外は自動的に動いて、回って、およそ規則的に動いている世界の中で意思を持って生きている。

この心細さというか、意思を持っている意味性の乏しさみたいなものを考えずにはいられない。

そんな折、初めて劇団四季に行きました。

ライオンキングです。

オープニングから圧巻で、幕が上がると舞台上にはヒヒ、ラフィキがたった一人立っている。

プライドロックの王であるムファサの子シンバの生誕を祝う日、ラフィキは祭典に先駆け、生命の循環を讃える歌(サークルオブライフ)を歌う。

丸く焼ける太陽が昇り、ラフィキに呼ばれるようにして、次々と舞台に上がっていく動物たち。

キリン、ガゼル、サイ、ヌー、白い鳥(なんていう鳥なんだろう)、レイヨウ、ヒョウ、シマウマ。

世界中はあらゆるものが違った動きをしながら、ただし規則的に動いていながら、なぜか巧妙なサークルを作って、滞ることなく、循環するようにできている。生まれては死んで、食べては食われて、この地球は辻褄があっている。

その秩序を理解するのが王だとムファサがシンバに説くシーンがあります。

しかし実際は、どんな動物も秩序や循環を意識することなく、自然に、自動的に、太陽が昇るように目を覚まし、星が燃えるように食べるだけで、世の中は大きな歯車と小さな歯車がうまく噛みあい、順調に回っている。

誰の意思も必要ないのです。

この星の中に生まれて、僕らが意思を持つ意味はなんなんだろう。

ライオンキングを見て痛く感動した日、帰りのバスの中から窓の外を眺めると、鮮やかなオレンジ色がビル群を照らしています(あ、上の画像は僕が見て撮ったものじゃないです。写真撮り損ねました)。

僕は強く、「人為というのは美しいな」と感じました。

それはオレンジに染まるビル群の見事さと、舞台の見事さが相俟った感想でした。

この地球にあって、ややもすれば「不自然」なほどに意思を持った僕らは、美しさの意味を知り、美しさを切り取り、再現することができる。

舞台一つとっても、写真一つとっても、僕らはそういうことをする生物であることが分かる。

もちろん良いことばかりではないけれど、人為というものは総じてこの世界の美しさを知るために存在しているように思える。

そんなことを考えた週末でした。

 

劇団四季の『ライオンキング』で感動して、人為は美しいと思った話。(完)

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