の二問目「文字だけで構成されている世界が持つ意味ってなんだろう?」への回答です。
非言語コミュニケーションすら言葉で表現しなければならない
文字の世界では、非言語コミュニケーションすら言葉で表現しなければなりません。
非言語コミュニケーションとは、言語以外ですから、表情とか仕草とか動作とか。
あと言葉を発するとき、使ってるのは言語なんだけど、声色を変えたり話すスピードを変えたりしてニュアンスを操作しますよね。あれも非言語コミュニケーションと言えます(たぶん)。
このブログでは何度か書いてるけど、コミュニケーションにおいて、言語に依存している割合はほんの10%ほどだと言われています。
ほとんどの情報は言語以外でやりとりされているということ。
犬や猫とコミュニケーションが取れるのも、異国の人とも何となく意思疎通できるのも、まったく不思議なことじゃなくて、とりあえずコミュニケーションを取るのであれば言葉はいらないと言って言い過ぎじゃないのですね。
文章の中でも特に小説のようなものを書くときは、この、言語以外の領域も具に言葉に置き換えなければならないという面倒さがあります。
だから小説って長くなるんですかね。
読者を信じて何を省くか、読者を信用せずに何を書くか
例えば、以下のような文章があったとして、と考えます。
冗談を言ったあと、彼はいつも諦めたように笑う。
この、「諦めたような笑い」がどれだけ通じるの?というところを、小説家は考えなきゃなんじゃないかなと思います。
僕の中には「諦めたような笑い」が確かにある。
「諦めたような笑い」が脳内再生できるし、完全なオリジナルとは言えないかもしれないけれど僕が考えた顔と表現なのだから、正解は僕の中にある。
しかし、この「諦めたように笑う」という表現を見て、それがどれだけ読者の頭の中に再現できるだろうか。
以下の文章ならどうでしょうか。
彼は私のノートと自分のノートを素早く交換していたずらっぽく笑った。
「いたずらっぽく笑った」の方が、「諦めたように笑った」よりは通じやすい表現だろうなと思います。
ただ、正直僕の中ではいまいち使いどころが分からない表現で、↑の例文もなんだか妙だな?という気がします。
いたずらっぽいことをしたあとにいたずらっぽく笑うんじゃ芸がないというか、多分そういうことじゃないと思う。
何も悪いことはしてないのに、なんだか人をからかうような、探るような笑顔をしている男性の笑顔に対する好意的な比喩表現という気がします。
イメージだけど、あんまり女性ではしない表情で、したとしてもいたずらっぽく笑うとはあまり言わないんじゃないかなと僕は思う。僕は。だから人によっては女性でも普通に使うかもしれません。
このように、非言語コミュニケーションを言葉で表そうとしても、どうしても乖離ができてしまう。
この乖離を少なくするためには、より細かくシチュエーションを整えたり、顔の客観的な形を伝えたりしなきゃならない。
この、言葉ではどうしても届かないところが、言葉でできた世界の短所だと思います。
言葉によってとにかく書いた通りになる
何もかも言葉で表現しなければならない世界は、言葉の意味に対する印象や普段の使い方によってどうしても乖離が生まれてしまって、その差を0にするのはほぼ不可能なことです。
つまり、言葉で世界を共有することは無理。
しかし、反対に考えるとダイナミックなことが起こります。
書いたことはとにかく本当になる。書いたことは精度は別にしても、とにかく共有概念として存在する。
地球から2800億光年離れた小さな惑星で
って書けば、そこがどこかよく分かんないし、全然イメージなんてできないけど、とにかくそこに惑星が生まれる。
だからSFが成り立つ。
そもそものことを言えば、今ここ以外のものを共有するために、僕らは言葉を使います。
明日のこと、明後日のこと。
未来では何が起きるか分からないのですから、明日の話でさえ、SFと言って良いと思います。
明日の予定を立てられるのは、僕らが明日という言葉によって、本当は存在しない明日を共有できるからに他なりません。
明日が生まれ、明後日が生まれ、何千年後のことも語れる。
過去も同じです。人がまだいなかった時代のことすら、言葉の上では共有できる。
非言語コミュニケーションは、圧倒的に「今」に焦点を合わせた手段です。一方言語コミュニケーションは、「過去」や「未来」という概念と常にともにある手段だと思う。
今ないものについて、もうなくなってしまったものについて、目に見えないものについて、触れられないものについて、精度は別にしても、とにかく共有することができる。
言葉を尽くすということはそういうことなのではないかと思うのです。
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