一定の強度で思考し続けることができる「読書」という行為

boy in gray jacket reading book発想と行動を記録する
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保坂和志著『小説の誕生』という本を読んでいて、とても納得した箇所があった。たくさんの納得がある本だけど、中でもブログに残しておきたいと思える箇所があった。

保坂和志が言うには、「考え」っていうのは全然一定じゃない。体調に左右される。もっと詳しく書いてあったけどここではこの程度にとどまる。考えることはいつもいつでも一定の強度できるわけじゃないってことはこのブログを読んでくれている人になら分かってもらえると思う。

だから私はニーチェとクロソウスキーの言葉を読んで、自分の考えだと思う。私は私の考えをつねに制御し把握し捕獲できているわけではないから、それらの言葉に出合って、それを自分の考えだと思う。少なくともニーチェとクロソウスキーの考えの萌芽のようなことを一度は考えたり感じたりしたことがなければ、それらの言葉に出合って、「(おれの考えてたことは)こういうことなんだ」とは思わないだろう。新潮社『小説の誕生』332p

ここを読んで僕は何を考えたかと言うと、本っていう、「文字で固定された思考」のすごさ。

自分のこと馬鹿だと思うなら本読もうぜ本、ってこと。

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下手の考え休むに似たり

もちろん僕は馬鹿で、馬鹿というのが遜りすぎなら平凡の上にも平凡で、決して頭が切れる側にいる人間ではないけれど、普通に生きているなりにいろいろと考えたり悩んだりすることがある。

しかし、「下手の考え休むに似たり」で、何か腹を据えて悩んでみようと思ったところでそこまで深い思索なんかできない。すぐ壁にぶち当たる。考えを文字にしようとするとなおさら壁はすぐに現れる。

たまに頭が閃いて、今まで自分でもまったく言語化という形で実を結ぶと思っていなかった思考が去来することがあるが、そんなまぐれ当たりが人生で何回起こるだろう。

思考は一定じゃない、っていうのはもちろんだけど、仮に僕の思考が一定だとしても、それは大した強度ではないし、大した成果にはつながらないのは明白。

だけど本を書いた人は、ずっと昔に書かれて今も読み継がれている古典や、今の社会システムの礎となった思考を記したような本を書いた人は、平凡な人間を束にしても敵わない強度の思考を言語化して残してくれている。

それを読むことで、部分的にでも、「僕もこの部分を疑問に思ってたんだ」とか「僕もこれは考えたことがある気がするぞ」というような場面に出くわす。まるで自分で考えたことみたいに、嘘みたいだけど本当に自分が考えようとしていたこと、考えたことがあると思えるようなことが書いてある、ことがある。

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本当に本を火にくべると焚書になってしまうけどね!冗談冗談!

「自分の頭で考えること」が少し前に流行った?流行ったというかそういうスローガンが膾炙した瞬間があった気がするけれど、僕はどっちかというと、「自分の考えに頼り過ぎない」が良いと思う。

さっきも言ったけど自分の考えなんて本当に一定じゃないし、一定だとしても大した深くも強くもないし、そもそもずーっと考え続けられるほど人生に余裕があるわけでもない。

そりゃ自分の頭で考え続けるができればそれに越したことはないのだろうけど、ほとんど多くの人はその「自分の頭」ってやつがそれほどフルで使えるわけじゃない。

だったら素直に、普通では成し遂げられない距離まで思索をした先人の言葉を早い段階で読んだ方が良いんじゃないか。思考の壁にぶつかったら読む、言語化の迷宮に迷いこんだら読む。

読んでる時間が長い方が、結果的に「考える時間」が長くなるんじゃないかって思うってのがこの記事で一番言いたいこと。

ただ最初に引用した箇所に

少なくともニーチェとクロソウスキーの考えの萌芽のようなことを一度は考えたり感じたりしたことがなければ、それらの言葉に出合って、「(おれの考えてたことは)こういうことなんだ」とは思わないだろう。

という部分がある通り、少しでも自分で、しかも本気で考えなきゃ何を読んだって意味はないかなとも思う。自分で考えるのを放棄するのとは違う。考える主体は自分。

イメージとしては、火だねは自分で頑張って拵えて、書物で本格的に着火、いつしか盛大な炎にって感じ。

本当に本を火にくべると焚書になってしまうけどね!冗談冗談!

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