まちづくりの問いと答えのバランス

答えを欲しがる、もしくは解決法を欲しがる傾向が強いと思う。

何において、と言うわけではないけれど、あえて言うなら人生において、僕らは自然に答えや解決法を欲しがるようになってしまっている気がする。どう生きるのが正しいのか?どう生きるのが有利なのか?そんなものが欲しいと思ってる。

このブログにおいて主要なテーマの一つとなっている「まちづくり」に関してもそれは顕著ではないでしょうか。

豊かな暮らしとか、地域の活性化とか、移住促進とか、SNSなどネットを使った発信の方法とか、何につけても求められるのは答えの方で、問いの方ではない。

こう言うと、そんなの当たり前じゃないか、問い、つまり課題に対して、答えがないのだから、と言われるかもしれません。

しかし、本当にそうだろうか?と最近はよく思います。

僕らに足りないのは問う力の方なんじゃないか?と思うのです。

まだうまく言葉にできなそうだけどこの筋で書いてみます。

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問いが足りない、という感覚を共有したくてこの記事は書いています

答えや解決法がいまいち発掘できないのは、問いの魅力が足りていなかったり、問いの深度が足りていなかったりするのではないかと思います。

僕らはその答えが欲しいと、その解決法が知りたいと思わされているだけで、本当は自ら問いを発したことはないんじゃないか?

僕が何を言っているのかが、もしかしたらよく分からないかもしれません。

僕自身、かなり曖昧なことを言っているという自覚はあります。

だけどこのブログを読んでくれている方の中には、何となく僕の言っていることが分かる、という方もかなりの数いるのではないかという自信に似た感情もあります。

しっかり言葉にしろと言われればすぐには難しいけれど、喉元まで出かかってる何かがある。もう少しで言いたいことに届きそうな気がするという領域があり、僕らが問わなければならないのはその領域の、まだ明文化されていない、もしくはこの社会で市民権を得ていない種類の物なのではないかという予感がある。

そういう方がこのブログ記事を読んでくれているというイメージができる。

問いと答えのバランス

バランスの問題だと思います。

僕らはときに手っ取り早い答えとか、自明の解決法を借用したり、試したりする必要がある場合もあると思う。

それに、問うばかりで答えを出さないのもなんだかズルい気がする。この手の問題には解法らしい解法がない、言うなれば人の数だけ解法があり、よって人の数だけ答えがあるなんてお為ごかしを受け入れるのは最後の最後で良い。

僕らは適宜答えを提示する必要があり、それは現段階で間違っていたりまったく世界に響かなかったりするけれど、それなりの確信を持って示されるものであるべきだと思う。

その上で、やはり比率としては問いの方こそを重要視すべきなのではないかと思うのです。

僕らは夏休みに先生に出されたドリルを疑いなく解くようなことをしている。目の前に数式があるから、文章題があるから、それに答えを当てはめていくような作業をしている。

しかしそれではやってることがまるで子どもで、僕らは与えられた答えを受け入れる以外の選択肢を取ることができない。

だから僕ら、答えにオリジナリティを求めるならまず問いにこそオリジナリティを見出すべきだと思う。

これ、今後もっと具体的に書いていく方針です。この記事自体が僕の問いです。

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