善意に便乗しない

コミュニティ・メカニズム

ツイッターやフェイスブックといったSNSがあんまり得意じゃないのだけど、その理由の一つに「善意の便乗」という現象があると思っているからです。

例えば、善行や素晴らしい意見に対して「いいね」や「コメント」が付く。

当たり前のことですし、悪行や、誰かを傷つけるような意見が評価される場よりはよほど良いに決まってる。

だけどいざ自分が「いいね」を押そうとすると躊躇する。

僕は今「善意に便乗」しようとしてないか?と考えてしまうのです。

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善意に便乗するとは

SNSでのリアクションは、投稿者に対する純粋な賞賛やメッセージであることがほとんどだと思います。

しかし僕の中では、それらのリアクションは、自らが投稿したり発言したりするのと同じくらい立派な意思表示だという認識があります。

つまり、私はこういう行動を素晴らしいと思う人間ですよ(だからRT/シェアします)、こういう行動に対して拍手を送る人間ですよ(だからいいねを押します)、というメッセージを、不特定多数の人に対して示しているのです。

それの何が悪いの?実際に良いものを良いと思って、それを広げようとしたり、賛意を示したりすることは素晴らしいことじゃないか、と思う人もいるでしょう。

確かにそうだと思いますし、他人のSNSの使い方に文句を言いたいわけでもなく、僕は自分が「善意に便乗」しようとしているなと感じたらリアクションはしないと決めている、という話です。

善は信仰

僕は僕、他人は他人と言えど、ある「善」や、ある「正義」を疑わない場は怖いという認識もあります。

SNSでは賞賛に次ぐ賞賛、正当な批判に次ぐ正当な批判、拡散に次ぐ拡散によって、その投稿に関わる場が特定の「善」や「正義」に染まった場になりやすいと思います。

SNSでなくても、例えば家族内とか、クラス内とか、社内とか、限られた空間において「善」や「正義」とされることに染まり過ぎると傍から見て違和感を感じたり、ときには恐怖を感じたりすることがあるのではないでしょうか。

こういうときによくあるのが「宗教っぽい」という感想だと思いますが、これは言い得て妙で、「善は信仰」なのだと思います。

ネットは世間か、それとも神か。「恥の文化」と「罪の文化」について。
たとえば、ある人の悪事はテレビのニュースよりも早くTwitterで広がってするっと化けの皮がはがされたりするし、善事もまた同じようにどこかの誰かの発言によって爆発的に取りざたされて、いっとき僕らの荒んだ心を温かくしたりする。窮屈になったと...

僕は自分が「善い」人間なのだと信じたい。だからときに善に反応したくなるし、それは行動で示さなきゃいけない気持ちになることがある。

だけど僕が信じる本当の正義は「バランス」なので、「善意に便乗しない」はこれからも意識していきたいと考えています。

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