【カズオイシグロ】『わたしを離さないで』の冒頭に見る英国紳士の雰囲気

好きな作品と雑談

 

 

昨日こんなツイートをしました。

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カズオイシグロ『わたしを離さないで』で勉強できたこと

カズオイシグロ『わたしを離さないで』はとにかくカッコいい小説だなあと思っていました。

平易な文章で、刺激の少ない語り口なのにチープな印象がない。

同じ題材で自分が書いたら絶対にダサくなる、ということが分かる。

臓器移植用に複製された子たちが通う学校。そこで暮らす子供たちの生と死と性。

発想自体はそれほど珍しくないと思いますが、この世界観の語り口に惚れ、驚きでもない悲しみでもない新しい感情にまで連れて行ってくれた。

ツイートの通り、自分の創作に倦んだときに読み返してみると冒頭から違いました。このスマートさ、物語への誘い方。そういうものが勉強できたのでシェアしようと思います。

 

冒頭で作る違和感と物語への誘い

冒頭を少し長いですが引用させてもらいます。

私の名前はキャシー・H。今三十一歳で、介護人をもう十一年以上やっています。ずいぶん長く、と思われるでしょう。確かに。でも、あと八ヵ月、今年の終わりまではつづけてほしいと言われていて、そうすると、ほぼ十二年きっかり働くことになります。ほんとうに長く務めさせてもらったものです。わたしの仕事ぶりが優秀だったから? さあ、それはどうでしょうか。仕事がとてもよくできるのに二、三年でやめさせられる人がいますし、まるで役立たずなのに十四年まるまる働きとおした人も、少なくとも一人知っています。ですから、長いからといって自慢にはなりません。ただ、わたしの仕事ぶりが気に入られていたのは確かで、わたし自身、自負めいたものがないわけではありません。わたしが介護した提供者の回復ぶりは、みな期待以上でした。回復にかかる時間は驚くほど短く、「動揺」に分類される提供者など、四度目の提供以前でさえほとんどいませんでした。

ハヤカワepi文庫『わたしを離さないで』9p

※赤字は筆者によります。

物語の設定を知らないままに僕らはこの文章を読むわけです。

とても簡単な文章で書かれていて、意味の分からないところは一つもないけれど、違和感を持つべきところはある。

ん?と一瞬だけ思って、まあでも良いかそういうもんかって思って先に進む程度の違和感です。

それが赤字の最初「ずいぶん長く、と思われるでしょう。」ですよね。

介護の仕事を二十歳前後から十一年ほどやっていることって「ずいぶん長い」でしょうか。

短くはないかもしれませんし、僕らの感覚で言えば転職ブームの昨今、加えてしばしば仕事量に対して低賃金が問題になる介護の分野で十一年は長いと言われれば長いかもしれません。

しかし、語り手の方から「ずいぶん長く、と思われるでしょう。」と言われるほどか?とは思う。まあいいや先に行こう。この程度の違和感。

「提供者」という単語から始まるフィクション

続けて読み進めると、「提供者」という言葉が出てきます。

「提供者」という言葉自体は僕らが既に知っている言葉なので問題はないのですが、この文脈で使われることに新奇性を感じます。「提供者」というのは僕らが知っている意味は少し違うかもしれないぞ?という違和感を植え付けられる。

この瞬間にフィクションが始まると僕は思いました。

僕らに分かる単語が、僕らに馴染みのない文脈で使われている。

この瞬間に抱く違和感によって、あれ、いつも通りじゃないぞ?と思う。

ってことは、さっき感じた違和感(介護人を11年やってることが長いかどうか問題)にも何か理由があるのかもしれない、と感じるのです。

ここが鮮やかだなと思いました。普段着で、リラックスした状態で、なんならもう今日は寝るだけだなって思ってたのに、ふいに電話がかかってきて、今から遊びに行かない?って友達に言われたときのような、予想外の非日常。

そんな世界のへの誘い方が実に穏やかで、紳士的。

だって知っている単語で知らない世界を垣間見せてくれるわけですからね。負担はなく、エスコート上手でカッコいいです。

無意識の繋がりを抱かせることで作る雰囲気

「提供者」という物言いが頭の中でいわゆる「ドナー」という風に再翻訳されることにも気付くはずです。ドナーと言えば僕らが知っている意味はあまり多くないはずですから、ここで不穏を感じる。

「四度目の提供」という言葉も知っているようで知らない。意味は分かるけれど知らない言い回しです。ドナー提供って何度もするもの?

さらに「動揺」という言葉がカッコでくくられていることから、やはり僕らが知っている言葉であるにも関わらず、専門用語的に使われていることが分かる。

これらがすべて繋がって、不穏さが具体性を帯びる。そうすると少し遡って「介護人を長く続ける」という言葉にも、僕らが知らない、だけど別の文脈が存在することが予測できる。

このような流れで、『わたしを離さないで』の冒頭は穏やかに、しかしたっぷりの違和感と不穏さを湛えて物語の扉を開きます。

そして次のページでようやく「ヘールシャム」という、知らない固有名詞が出て来て、いよいよ物語の中に没入できるようになっている。

ついでに言えば提供者の状態に「平静」と分類することもあることが分かり、やはり専門用語なのだということが分かる。

しかし予測が生まれれば次の謎が生まれる。ヘールシャムって何なの?

そう思わせたらもうヘールシャムの話をする準備は整ったことになる。語り手のキャシー・Hがヘールシャム出身だという情報まで明かされれば、語り手が彼女である必然性も芽生えてくる。

『わたしを離さないで』の「抑制の利いた」文体について

『わたしを離さないで』は「抑制の効いた語り口」と評価されることが多いと思います。

柴田元幸さんによる解説でも以下のように書いてありました。

「細部まで抑制が利いた」「入念に構成された」といった賛辞が小説について口にされるとき、その賛辞はどこか醒めた感じに聞こえてしまうことが少なくない。むろん好みは人それぞれだが、我々の多くは、書き手があたかも抑制などいっさいかなぐり捨てたかのような、我を忘れて書いたように思える作品に仰天させられることを求めているのではないだろうか。

日本生まれのイギリス人作家カズオイシグロの第六長編にあたる本書『わたしを離さないで』は、細部まで抑制が利いていて、入念に構成されていて、かつ我々を仰天させてくれる、きわめて稀有な小説である。

冒頭に引用したツイートでも「物語に対する透徹した視野」と書いたけれど、冒頭の短い文章で用意された情報量の多さと物語に対する鮮やかなエスコートの仕方は、「入念な構成」がなければ生まれないものだと思います。

エスコートする側は、これから我々がどこに行って、どこでお腹が空くということが分かってる。そんなタイミングで目の前で表れるレストランのこともよく分かっていて、普段なら入りにくいところだけど今日は自然に入ってみようという気になるテンションにしてくれる。そこで食事を楽しんでいるとちょっとしたサプライズがあって、だけど荷物になるといけないから同じものが実はもう部屋に置いてあるんだ、気に入らなかったどうしようと思ったよってユーモアも挟んで、なおかつ荷物を気にするということはまだ夜はこれからってことか、ということまで期待させてくれる。

すべて優しい計算。

これがいかにもサプライズを用意してるぜって感じで始終ニヤニヤして一人でテンション高かったり、さっきおやつ食べたばっかりなのに無理やり食事でもとかいって、しかも遠くのレストランに案内されたりしたらえーってなりますよね。そんでちょっと高そうな店で、いやいやその辺の居酒屋で良かったやん!みたいになって、うまく喜べないからサプライズも不発に終わり、部屋に置いてあるってなに?怖いんだけどってなる。

余裕と配慮がなければ同じ筋書でもこうなってしまうことがある(僕が同じ題材で書いてもダサくなるってのはこういうことですね)。

つまり独りよがりな文体とエスコート上手な文体があるということで、カズオイシグロの『わたしを離さないで』はまさに英国紳士と言って差し支えないエスコートがめちゃくちゃ上手な小説だった。

日本生まれということを考慮して「エスコート」を「おもてなし」と言い換えて僕らに寄せてみても良いかもしれないですよね。

また、その穏やかさと余裕と思いやりは語り手であるキャシー・Hのキャラクター性とも合致しており、最後まで安心して物語に身を委ねることができる。

だからカッコいい小説だって思うんですよね僕は。

 

 

 

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