太宰治『桜桃』/子が生まれてから読む「子供より親が大事、と思いたい」

好きな作品と雑談

自分の子どもが生まれてから太宰治『桜桃』を読めば、少し印象が変わるだろうと思って読んでみました。

なぜ『桜桃』かと言えば、「子供より親が大事、と思いたい」というフレーズが頭の中にしっかり残っていたからです。

奥さんと言い合って(正確には言い合いになることすら避けて)飲みにでかけた作家の父親が(太宰本人?)、出されたさくらんぼをつまみながら、心の中で虚勢みたいに呟く言葉が「子供より親が大事、と思いたい」です。

学生の頃に読んだきりの印象では、『桜桃』はダメな親父(男性という意味でも父親という意味でもある)の手記です。太宰の私小説と言って良い作りのこの作品は、太宰だからこそ、ダメだクズだで切り捨てるわけにいかない暴力があるけれど、こうはなりたくない父親像であることは間違いない。

でも実際に父親になってみた今「子供より親が大事、と思いたい」は別の響きを運んでくるのではないか、という予感がありました。

青空文庫のリンクを貼っておきます↓

桜桃

 

Contents

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子供より親が大事、と思いたいに感じる父親の「優しさ」と「酔い」

結論を言えば、読み直すと印象は違いました。

父親の葛藤を単なるダメさと見てしまうのは狭量かもしれない。

僕が父親になったからなのか、単純に改めて読んだからなのかは分かりません。

だけど、この父親はダメなだけではなく十分優しい。それが分かったけれど、だからと言って憧れられない。

よく言われることだけど、「子供より親が大事」ではなく「と思いたい」なんですよね。

いっそ何より自分が大事だと割り切って、妻とも子とも向き合えない罪悪感すら抱かずにいられたら、と思う。

いられたらなんだって言うのでしょうか。

きっと、そういうセンシティブな自分がいなければ、仕事はもっと捗り、結果的に妻にも子にも迷惑をかけずに済むのではないか、という思考があるのではないでしょうか。

でももし自分がそんな父親なら、小説なんてそもそも書かずに生きるような気がするから、その捗ったらどんなに良いだろうと思ってる小説そのものがなくなる。この弱さとか、繊細さとか、神経症的なところは、一方で自分の大切な武器でもある。

優しさがうまく発揮できず情けない状況に家族を追いやっていることに罪悪感を抱きながら、その扱いにくい心の優しさに酔ってもいるのではないか。

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4歳の長男

事情はなかなか複雑です。

『桜桃』に登場する夫婦の家族構成は、父と母、7歳の長女、4歳の長男、1歳の次女の5人家族。

女の子二人は元気だが、4歳の長男は

四歳の長男は、痩せこけていて、まだ立てない。言葉は、アアとかダアとか言うきりで一語も話せず、また人の言葉を聞きわける事も出来ない。って歩いていて、ウンコもオシッコも教えない。それでいて、ごはんは実にたくさん食べる。けれども、いつも痩せて小さく、髪の毛も薄く、少しも成長しない。

きっと、今の認識に照らし合わせれば何らかの障害を負っていて、特別なケアが必要な子に違いない。

父も母も、この長男について、深く話し合うことを避ける。白痴、おし、……それを一言でも口に出して言って、二人で肯定し合うのは、あまりに悲惨だからである。

『桜桃』の家族においても、4歳の長男が何らかの障害を負っていることは薄々感じているものの、明言することは避けている。

現代と違うのは、そんな事実があったところで、為す術がないということかもしれません。

つまり、ただ仕事を人並みにこなせば良い、という以上の問題がこの家族にはある。

問題と向き合うことを避ける情けなさを虚勢で誤魔化している気配がある。

「涙の谷」 それが導火線であった

「涙の谷」という言葉は、賑やかの食事の場面で母が言ったことです。

お父さんは鼻に一番汗をかくようねと母。お前はどこかねと言われた母は、自分の胸の谷間を指し、「涙の谷」と言います。

真面目な顔で「涙の谷」と言われたことが、「夫婦喧嘩の小説なのである」と語り手が言う『桜桃』の、導火線だと言います。

昔はどういうことかいまいち分からなかったのだけど、今なら分からなくもありません。

1歳の女の子がいるので夜中に授乳するだろう。そのとき、他の子の布団を直してやったりもするだろう。

4歳の長男に関するトラブルは多いのかもしれない。呼吸が変な感じになっていたり、まだよだれがダラダラ流れているのかもしれない。

そういう不安や不快感と、母は一人で戦いながら、たまに涙を流すのかもしれない。むき出しの胸の谷間に涙が溜まる。

このとき、何もしない父を恨んだりすることもあるんじゃないだろうか。ろくに仕事をしている風でもなく、家ではふざけてばっかりなくせ、肝心なところで鬱々と塞ぎこんで使い物にならない。

この遠回しな非難が「涙の谷」という言葉に込められていて、父はそれを痛いほど感じとったんだろう。

「涙の谷」の意味が分かるから向き合うわけにいかない

普通「涙の谷」と言われても咄嗟にはピンとこないと思います。

だけどこの父は、涙の谷と言われてうまく返答もできず、おちゃらけて見せることもできない。「涙の谷」という言い方も、妻の顔も、嫌味を言っているように聞こえる。嫌味に聞こえるのは「涙の谷」の意味を知っているからだろう。

夜な夜な奥さんが泣きながら授乳していることとか、1歳の子ばかりでなく他の子の面倒を昼間と同じように見ながら暮らしていることを知っている。

父親はろくに仕事もできず、酒を飲み、よそに女もいる。これを妻が知っていることも知っていて当てつけのように自分が苦しんでいることを訴えているように聞こえる。父は父でそれはしょうがないことなんだと思いながら、同時に自分の甲斐性の無さを申し訳なく思っていて、自分には自分の辛さがあると思ってる。

ここ。「子が一番、家族が一番、だけど自分には自分の辛さがある」って嘆きたい気持ちが、何となく分かるようになってきたんですよね。でもそんなことを言うわけにいかない辛さ。でもそれは妻にもあるはずで、自分が辛い、なんて思っても言えない。だから鈍感を装う必要がある。

もし「父」が、夜中一人で泣いている妻に声をかけたらどうなるだろう。夜中の子守りに少しでも手を出したらどうなるだろう。妻の辛さを知って、関わってしまったら?

4歳の息子に関する不安を話し合うことになってしまうんじゃないか。そうなったら何ができるだろう。

家にいるのだからせめて育児の負担を減らしたり、妻の不安に寄り添ってやりたいと思うけれども、そういうのと向き合ってしまったら自らの弱さ情けなさと向き合うことになってしまう。向き合ったら弱さは改善しなければならない。

結局言えることは

誰か、人を雇いなさい。どうしたって、そうしなければ、ならない

 

『桜桃』は夫婦喧嘩の小説だが、正確には夫婦喧嘩もできない男の小説

誰か人を雇いなさいと言ったあと少しだけ言い争いが始まりそうな気配がして、父は居たたまれなくなり、仕事にでかけたいと言う。

妻は重体の妹の様子を見に行きたい。でもそうすると自分が子どもを見なければならない。妻のこうしたい、ああしたいを否定する力もないのに妻の負担を受け入れる器もない。結果いなすことになる。仕事ではなく飲みにいく。

そこで出された桜桃を見て、子どもに食べさせてやったら喜ぶだろうなとか、蔓を繋げて首飾りにしたら喜ぶだろうなとか考えている俺子ども想いだな、と思う。

優しさは本当だけど、同時に自分に酔っている。妻との言い争いにすら居たたまれなくなって、仕事と偽って外に出て酒を飲むようなダメ親父だしダメ夫なんだけど、そんな自己像とぴったり重なりあうように、「こんな状況でも何だかんだ子どものこと考えちゃう自分」っていうのをしっかり認識している。

そして心の中で虚勢のように「子供より親が大事、と思いたい」と呟く。

僕が小説を書くからなのか、ダメな父親だからなのかは分からないけれど、親近感と軽蔑が入り混じった感情が『桜桃』を読んで湧いてくる。

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