自分の目標を達成するに当たって、何をすれば良いか分からなくなってしまうとき、「誰かが先にやって悔しいと思うことはなんだろう?」という視点で考えることがあります。
これは小林賢太郎プロデュース公演『TAKEOFF』というお芝居において、ある大学の旧校舎の解体作業中に発見した飛行機の設計図を元にみんなで飛行機を作ろうという展開になったとき、渋るキャラクター(小林さん)に「もし僕たち以外の人が、同じことをやろうとしてたら?」と聞くシーンが印象に残っていることが影響しています。
「それは、悔しいなあ」と気付いて、なんやかんやあって、じゃあやろうか、という流れになるあのシーンが好き。
19分50秒くらいからの章が当該シーンを含みます。てかすごく面白いお芝居なので是非見て欲しい。
今日もふと思いました。
「誰かがやって悔しいと思うことは何だろう?」
小説と誰かがやって悔しいこと(大きな視点)
ちなみに僕の目標というのは、「どっぷり小説を読んだり書いたりする生活を送ること」
それって「小説家になる」ってことだよね?
イエス。しかし僕はこの町で、新しい時代の小説家として生きることにこだわりを持っていて、かつそういう「生活スタイル」を誰かに転用できることが重要だと思ってます。
キレイごとでもなんでもなく一人勝ちを目指しても仕方なくて、特に追い風というわけではない「小説」とか「文学」というジャンルはきちんと「生き方」と結びついてなきゃならないと思うのです。
クリエイター業で飯を食う、という生活スタイルは、一昔前と比べると随分ハードルが下がったと思います。
世間に自分の作品を知らしめる手段が多くなった。
写真とか絵とか音楽とか、そういう領域の、本来それで飯を食えるヤツは一握りだったあれこれが、「自分ひとり生きるくらいならなんとか稼げるかもしれない」くらいまでハードルが下がった。
しかし「小説」はなかなかそこまでいかない。絵のように飾っておいて満足なものでもないし、写真のようにお客さんに結びつくものでもなく、音楽のように生活や動画と組み合わせて引き立て役になるでもない。
商品として非常に扱いにくく、ということは小説家として生きるのは大変難しい。
だけどどこかに方法があるはずだ。何かやり方があるはずだ。
小説と誰かがやって悔しいこと(小さな視点)
もっと小さく個人的な話では、「誰かが書いたら悔しいと思う小説はどんなだろう?」とか「どんな執筆環境で過ごす作家に嫉妬するだろう?」とか考えることもあります。
誰かを見て嫉妬するということはそれこそ僕が体現したいものであるはずだから、嫉妬のセンサーで以て創作物や創作環境、もしくは創作スタイルを考えていくのです。
自分自身を客観的に眺めて、どうすれば自分は自分に嫉妬されるに足る存在になれるか(そしてもし誰かがいいねそれって思ったときに転用したり応用してもらえるようなものならなお良いですね)。
そう考えていくと、現状の自分ではまだ考えられない素晴らしい像に出会うことが稀にあります。
それを形にするのがまた難しいですが、たまに嫉妬センサーを使って発想をするのはわりとおすすめです。
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