高齢化、仕事減、人口減、税収減、まちの衰退、コミュニティ崩壊の危機は日本全国どこでも、大なり小なり直面している共通問題と思われます。
「○○町の未来を考えるワークショップ」みたいなことが各地で催されていると思うけど、みんなで話し合っても問題は絶対に解決しないのでやめた方が良いという僕の確固たる意見があります。
個人的な意見に過ぎませんがみんな気付いてるに違いないです。「町の未来」なんて漠然としたことをみんなで話し合ってもどうしようもないってことに。「いま幸せな暮らしをする個人」の総体がまちです。
Aさん家族の貧困をどうするか、Bさんのうつ病をどうするかと言った個別の問題をみんなの力で解決する会ならまちは少しずつ良くなるかもしれませんが、相当信頼し合ったコミュニティでない限り余計なお世話問題か恥ずかしい気持ち問題のせいで立ちゆきません。
「みんな」なんて幻想そのもの。発言するのはいつも同じ人で、会の主導権を握る一部の人間になります。どんな会議でも話し合いでも頭数だけの人が必ずいますが、「町の未来」について考える際は特に顕著だと思います。
自由に発言できる場は本当に自由だろうか?
「発言はいつも特定の誰かって、、、そんなんみんな自由に発言すれば良いだろう」
「そういうムラを少なくする工夫のためファシリテーターを雇ったりするんだろう」
本当に自由でしょうか。
こういうとき、みんなで脳みそを持ち寄ると思い込んでいるけれど、場の設定に従って大きなみんなの脳を作る作業をしがちではないですか。
僕らそういう教育を受けてると思うのです。「場に相応しい、みんなが納得する意見を自由に考えよう」という話し合いの教育です。無難を見つけ、場が何とか収まる意見をみんなで見つける話し合いです。
まちの衰退は既に無難なアイディアで突破できるほど大雑把な問題ではないと思います。
個別具体的な問題を集中的に、ときには斬新なやり方で解決する、を繰り返すほかないと思いますが、そのためには「みんな」では頭と心がデカすぎだと感じます。
よって「みんなで話し合って問題解決」はしないだろうと思ってます。
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大人が「みんなで考える」のは勝手だけど、子どもにまで強いるのは止めるべき
そんなこと言うならお前はそういう場に行かなければ良いじゃないか、という話ではあります。
だから僕は行かないけど、「子どもたちと一緒に考える町の未来」みたいな授業のような、子どもを巻き込んだものの存在が目につくことが増えた気がして、これは実にしんどい事象だなと感じました。
大人が「みんなで考える」のは勝手だけど、子どもにまで強いるのは止めるべきではないか。
どっちにしろ「協調性を持ってみんなで考える」教育は受けてしまうと思うけど、その題材として「まちの未来」ってのはさすがに子どもたちにとって無益すぎないか。
授業で「まちの未来を考えましょう」と言われれば、子どもは素直に、それもかなりまともに考えると思いますが、このとき子どもたちに課される課題はあくまで授業をつつがなくクリアすることです。
町の問題や未来についてもちろん真剣に考えるでしょうが、枠組みは大人が設定するものですので、そもそも考える対象が「地域に仕事がなくなっていくことについて」や「高齢化福祉の問題」や「子育て環境について」と言った大人が既に悩んでいること、もしくは些末だったり規模が小さかったりして手が回らない問題の未熟な焼き直しになります。
問題を解決しない「みんなで考える」を子どもに真似させてどうする
「子どもらしい自由な意見」とか「若者ならではの視点やアイディア」とかは基本的にありません。
逆説的な話ですが、そういう評価を大人ができる時点で自由でも斬新でもないと思います。本当に自由で斬新なら「訳が分からない」「バカバカしい」「倫理的にいただけない」で終わりだと思います。
子どもにも分かる問題点に大人が気付いていないならそれも問題だし、制限をぶち抜いて自由で斬新な問題解決のアイディアを生み出せる子がいたら勝手に走り出しているはずです。その際自分で選定した大人や友達に相談できるのは良いことだと思います。
まちの未来に関して、「みんなで考えること」「子どもに(大人が言う)問題を考えさせること」の両方を僕は良く思いません。
良く思わないどころか、大人がみんなで考えて問題が解決しないだけなら良いですが、子どもにその真似をさせるのは害だとすら思う。わざわざ平凡に均す作業です。
でもほんと、解決すると誰も思ってないのにそれっぽいことやってるだけなんじゃないかな、子どもの時間もっと大事にできるな、と思うのです。
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