「面白い話」と「面白い小説」はまったく別のものなんじゃないか。
ふとそんなことを考えました。
きっかけは、面白い話だったけれど何となく小説を読んだという満足感を感じられなかった本を読んだことにあります。
面白い話だった、良い話だった。だけど小説として好きではなかった。
本棚に並ぶことはなく、読み返すこともないと思いました。
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あらすじを話して面白い話と、あらすじを話しても面白くないけど面白い小説
例えば、あらすじを聞くだけで面白そうな話があります。
それはたいてい、実際に面白くて、言ってしまえば映画になろうがアニメになろうが面白いのだと思います。
だけど、「面白い小説」は必ずしもあらすじで面白いというわけではないと思うのです。
面白かった小説は人に話したくなるけれど、詳しくお話しの内容を話しても面白さがまるで伝わらなかったりする。
むしろあらすじとかキャラクターの情報を伝えても伝えても、面白さは感じなかったりするのだけど、実際に読むとものすごく面白い、ということがある。
そういう小説は、読んでいる間中ずっと面白い。
面白いトーンであふれていて、一ページ目から引力があって、もう読んでいる間幸せ、という気分になる。
面白い話を書こうとするな、面白い小説を書こうとしろ
小説を書くとき、そういう、小説ならではの面白さを目指したいけれど、なかなかうまくいきません。どうすれば良いかも分かりません。
きっと作家の絶妙なバランス感覚と息遣いに呼応して、自分に合っているというような状況なのだと思う。
そう考えると、自分が心底気持ち良いと感じるバランス感覚とか息遣いで以て、文章を書いていくというのが一番の近道なのかもしれません。
そもそも、小説を書こうとしたときにどうしても、面白い話を書こうと思ってしまいます。
もちろん、エンターテインメント小説を書きたくて、面白い話を書こうとするのは間違っていないと思うけれど、僕が目指してる小説は小説として面白い、映像化とかしたらダメそうだな、と思われるようなものが良い。
そんな僕にとって、小説を書こう、良い小説を書こうとしたとき、面白い話を考えたくなる。驚きとか、怖さとか、そういうハッキリとした内容のものを考えなくてはと思ってします。
でももしかしたら僕にとってはその辺から間違っているのかもしれない、と思ったのでした。
書きあぐねている人のための小説入門に書いてあったような
ここまで書いて、そういえば『書きあぐねている人のための小説入門』で、保坂和志さんが同じような話をしていたかもしれないと思い当たりました。
読み返してみると、「ストーリーとは何か?」という章において今日の記事の話題に関わりそうなことがたくさん書かれていました。
的確な個所が引用できるかどうか分からないけれど、いくつか引用させてもらおうと思います。
まず、私にとって「面白い小説」とは、最初の一行を読んだら、次の行も読みたくなり、その行を読んだらまた次の行も読みたくなり……という風に繋がっていって、気がついたときには最後の行まで読んでいた――そんな小説のことだ。132p
読み終わった後に、「これこれこういう人がいて、こういうことが起きて、最後にこうなった」という風に筋をまとめられることが小説(小説を読むこと)だと思っている人が多いが、それは完全に間違いで、小説というのは読んでいる時間の中にしかない。読みながらいろいろなことを感じたり、思い出したりするものが小説であって、感じたり思い出したりするものは、その作品に書かれていることから離れたものも含む。つまり、読み手の実人生のいろいろなところと響き合うのが小説で、そのために作者は細部に力を注ぐ。こういう小説のイメージは、具体的な技術論を覚えることよりもぜったいに価値を持つ。140~141p
小説とは、ただ「面白い話を書く」ものではなく、「面白い(興味が湧く、気持ちが動く……など)とはどういうことか」を考えながら書くものであり、普通に思われている面白さと別の面白さを提示するもののことだ。154p
「面白い話」と「面白い小説」はまったく別のものなんじゃないか、って冒頭では、あたかも自分で得た気付きのように書いたけど、僕はこの『書きあぐねている人のための小説入門』を何度も読んでいるので、単純に受け売りだったのかもしれない。
いや、何となく、「今になってやっと実感できた」という感じがします。読んでいたけれど、今まで実感を伴って理解していなかったことを、最近ようやく理解できたという感じ。
これも成長ですかね。
『書きあぐねている人のための小説入門』は何度も読んだけど、保坂和志の小説を読んだことがない
さすがにそろそろ保坂和志の本読まないとかなあ、と思ってます。
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