創造的破壊、創造と破壊の紙一重

自分で考える創作論

何かを生み出すことは世の中に「+1」する作業だと純粋に考えるのが普通だと思います。

しかし世の中何事も裏表があって、どこかで「+1」が生じるとどこかで「-1」が生じるものでしょう。

もちろん、自分は「+1」を全力で作りにいく。だけど意識するとしないとにかかわらず、どこかで何かが減じてしまう。

いやむしろ、何かを減じるようなものでなければ本当の意味での「+1」にはならないのではないか?というのがこの記事で初めに言いたいことです。

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何かを作るというのはすごく難しいことだし、必ずしも善とは限りませんが、それでも何かを作るのであれば自分の手は世界の何かを損ねるぞ、という覚悟が必要だ

簡単な話です。

例えば世の中にある製品のほとんどは、誰かの手間を減らすという目的を持って生まれます。

全自動洗濯機があるから洗濯にかかる時間と労力を減らすことができる。

将来的にはAIにたくさんの仕事が奪われると言いますが、この明らかにクリエイティブな存在の出現により、僕らの生活においてしなくても良いことが爆発的に増える。

仕事がその一つですが、あまりにも大きな創造すぎて受け入れるのも時間がかかりそう。

加えて、仕事という、ほとんどの人の人生における主成分が減ると、まるで自分の存在価値がまるままなくなってしまうと錯覚する人もたくさんいることが予想できます。

ここまでくれば創造と破壊の区別はほとんどつかなくなります。実にたくさんのもの(人生とか生きがいとかプライド)とかそういうものを壊すことになるのです。

壊れるものが壊れて喜ばしいかどうかは人のこころが判断します。

だから何かを作るというのはすごく難しいことだし、必ずしも善とは限りませんが、それでも何かを作るのであれば自分の手は世界の何かを損ねるぞ、という覚悟が必要だと思います。

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重要なのは、誰かが費やしたもの、誰かが損ねたものが、新たな「+1」を作るのかどうか

どうしても、何かを奪うとか何かを損ねるということを考えるのは嫌なものです。

何事も壊さず、何物も侵さず、何者も脅かさないものを作ってそっと世界に置かせてもらいたいと思うのが言わば僕らの良心なのではないでしょうか。

良くも悪くもみんな謙虚で、自分が作り出したものが何かを損ねるものだなんて考えもしないと思います。

しかし、例えば良いコンテンツを作ったらそれだけ誰かの時間を強制的に損ねるわけです。

誰の時間を奪いたいとも思わないものを作っても、きっと「+1」は生じない。

重要なのは、誰かが費やしたもの、誰かが損ねたものが、新たな「+1」を作るのかどうかではないでしょうか。

ある家電のおかげで節約できた時間で子供と遊ぶ、ある音楽に身をゆだねた時間が明日の活力になる、没頭した物語が生きる糧になる。

そんな風に、僕らの営みは全て+1、-1、+1という風に循環しながら文明を作り上げていくものだと思います。

そんな、人類の進歩に寄与できるようなものを作ってこそ、僕らの創造力は肯定されるのだ、というようなことを考えました。

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