『寺山修司の芸術論集』よりメモ

自分で考える創作論

寺山修司と言えば、劇団「天井桟敷」の主催で、市街劇『ノック』を上演した人、というイメージです。

『ノック』がどんなものだったのか、というのは、おそらく以下のような動画を見ると分かりやすいと思います。

天井桟敷 – 市街劇「ノック」(1975)

動画を見るのが面倒だという方のために簡単に概要をごく簡単に説明しておきますね。

『ノック』は市街数か所でゲリラ的に上演されます。

参加者は地図を入手し、各地域で発生する演劇的な空間に侵入することになります。

フラッシュモブの演劇版のようなものであり、本当に普通の街中で上演されるので、知らない人から見たら相当奇妙なものだったようで、かなり騒ぎになったようです。

ハロウィンの仮装で回りに迷惑をかける行為の芸術版みたいな感じでしょうか。

寺山修司は逮捕されているようです。だめじゃないか。

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私宅劇場のエーリアン

『ノック』は人騒がせで主催は逮捕までされて、関係ない人に迷惑をかけるのは普通にダメですね。

ダメだけど、趣向は面白いし、実は僕も似たようなことを考えたことがあるので『ノック』の存在を知ったときは大変感動しました。

考えるだけじゃなくて実際にやっちゃってるのも、結果的に迷惑だったけど、寺山修司って人はすごいなあと思った。

そんな寺山修司の芸術論集という本があったので読んでみたのですが、その中で「私宅劇場のエーリアン」という章があります。

書き出しは

ニューヨークでは、しばしば私宅が劇場になっていることがある

です。へえ、劇場じゃないところで行われるお芝居、日常のすぐ隣で始まるお芝居という発想は寺山修司のみならず、既に存在するものなのだなという驚き。

以下、私宅が劇場になる、という概念が分かる個所をメモとして引用しておきます。

私宅が劇場になる、という概念が分かる個所メモ

たとえば二十三番街の、チェルシー・ホテルから西へ数軒行ったところにある、小さなビル。

そこにはハンガリー移民のエヴァとエストバンが住んでいる。私たちは、5ドル払って二人の生活を見学に出かける。108p

 

「観客は、在るのではなく、成るのである」

と、私は天井桟敷の『観客席』(1980年)の台本に書いた。

実際、観客はエヴァとエストバンの私宅を舞台にしたスクアット・シアターの劇においても、「立会いを許された覗き魔」から「観客」になり、そしてついには「登場人物」になる、という仕組みになっている。113p

 

私宅劇場の試みは、ニューヨークではジャック・スミスやジェフ・ワイスなどによってしばしば試みられてきたし、東京でも芥正彦の劇団駒場の『クック船長航海異聞』(1972年)や、演劇実験室・天井桟敷の『イエス』(1971年)などによって実験済みの領域なのだ。114p

 

しかし、現代のドラマツルギーが要求するのは、現実とイリュージョンの対立であり、現実のイリュージョン化である。虚構が現実化し、現実が虚構化する。その無限倒錯の中にしか〈世界像〉は見出されないだろう 116p

この考え方に僕は強い関心を持っています。

演劇の文脈ではなく、文芸×まちづくりの文脈でです。

長くなるのでこの記事はメモに留め、僕が考える文芸の形は後日書きます。

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