何を善いことだと考えるかはもう全部信仰だ

コミュニティ・メカニズム

最近書いた記事の中で、僕ら誰しも「興味の無い善」ってあるよな、ということを書きました。

興味の無い善の存在について
善行を為すのも為さないのも個人の自由のはずだけど、ときに「善行を積極的に肯定しないこと」に対して罪の意識を植え付けられてしまうことがあります。 「善」は絶対的ではなく、過度に強要する空気があったり、意見をはっきり口に出す機会があったりすると...

大した発見には思われないかもしれないけれど、僕の中ではかなり腑に落ちる表現が見つかったという感覚がありました。

誰しも興味の無い善がある。

言葉にすればそんなの当たり前じゃんって言われてしまうことなんだけど、言葉にしないと文字通り黙殺されてしまうことだと思うのです。

さらに、何を「善」だと思うかってもはや信仰だよな、という話もどこかでしたのですが、この記事ではその辺も含めて、改めて整理してみたいと思います。

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勧められてもお願いされてもなお善きことをしない、のは悪なのか

例えば、赤ちゃんとか子犬とか、なんというか「弱き者」に対してあまり興味を持っていない人っていると思います。赤ちゃんとか犬とかを見ても特に愛でる対象にはならない、というような。

今は猫を飼っているし赤ちゃんが家にいるので多少認識は変わったけれど、かつての僕は完全に興味がありませんでした。

そういう人に、世界の貧困に苦しんでいる幼い命を救いましょうとか、虐待を受けている動物を保護しましょうって言っても、やはり特に興味はないはず。

幼い命が貧困で苦しんでいたり、虐待の対象になっている動物がいたりするのが善いことだとは思わないし、そういう境遇に陥っている命を救おうとすることは善いことだと思うけれど、自分がアクションを起こすほどの関心事じゃない、ということ。

この人が募金のお願いに応じなかったとしたら、「悪いこと」をしていることになるだろうか、というモヤモヤした感情がわりと昔からあります。

決してなりませんよね。ならないけれど、本人は「なんか悪いことしたかも」という気分にはなるかもしれない。

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何を善い行いと思うかはすべて信仰だと思え

だから、「善性」も「善行」も、振りかざせば暴力になる。

善いこと(と自分が信じること)はこっそりと、自分の裁量で行えば良くて、いかにそれが誇らしいことであっても、誰はばからず喧伝できると思えることだとしても、自己満足と自分なりの納得の産物に他ならない。勝手にやってること、の域は絶対に出ない。

この点、とても信仰と似ていると思うのです。神を信じるとか、戒律を遵守するとかって行為はその宗教が定めた善行に違いないけれど、それを無暗に人に勧めたりするのは剣呑だし、自分と同じ信仰を持たない人を悪とみなすのは暴力的です。

いかに小さな「善」であっても、日常に転がる「善」であってもそれは同じだと思うのです。

募金に応じるとか、ゴミを拾ってゴミ箱に捨てるとか、食べ物を残さないとか、なんでも。

もちろん、善いことはある程度合理的って側面はあるんで日常で善いとされてることは普通にやれば良いとは思うけど。

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