【うたと小説の違い】うたは直接感情に向かい、散文は理性を経由して感情へ向かう

purple leaf自分で考える創作論
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詩の始めは唄であり、唄は人間の肉体からじかに発した広い意味の身振りと思われますが、この原始の性質は現代の詩にものこっていて、どんなに理知的な詩でも、その喚起するイメージは人間の心情にじかに訴えます。これに対して、散文はまず理性に訴え、それを通じて、文学の場合には心情を動かしてゆきます

中村光夫『小説入門』という本、「詩と散文」という章の最初の方に書いてあったので引用させていただきました。

この文章を引用して、じゃあ僕は何が言いたいかと言うと、その通りだよねってことです(つまんな)。

でも言われてみれば、こうはっきり、唄(歌?音楽?と捉えて良い?)は心へ直接、散文は理性を経由して心へ、ということを教えてもらったことがなかったかもしれないなと思い、メモがてらこの記事を書くことに。

 

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うた(ひらがなで書くね)は心へ直接、散文は理性を経由して心へ

これが本当だとしたら、じゃあ、同じように言葉を扱う表現だったとしても使う能力ってけっこう違うよねってことをまず考えた。

とは言え、それこそうまく道筋立ててそれをうまく説明できるわけではないのですが、例えるならば、ある感情に向かって階段を作っていくのが「散文」。対して、階段を上り切ったところから突き飛ばすのが「うた」って感じのイメージが湧きました。

階段は誰が上るのか分からないままに、誰でもその気になれば上れるよう、コツコツと作り上げていく。心を動かしたい相手には直接触れないまま、論理という道筋を、後から来る人のために整備しておく作業。

対して誰かを突き飛ばすというのは、直接対象となる人物に、自分の手で触れ、否応なく、強制的に、誰かの心を動かす。やり方がやり方なので反応は誰でもほとんど一緒。

かなり表現法に差があると思いませんか。

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人に階段を上らせるために一体どれだけの創意工夫をする必要があるんだろう

うたを作ることはできないししたことがないので何とも言えないけれど、小説を書くときに重要なことは、もしそれが階段を作る作業のようなものだという喩えがあっているなら、途中で上るのを止められることを常に想定しなければならないということ。

8段くらいちょっと上って引き返す人もいるかもしれないし、200段まで上ってあと少しで頂上というところで引き返す人もいるかもしれない。

論理を積み上げる、理屈を捏ね上げる、そしてそれを他人に披露するというのは、無視されるポイントが非常に多いという意味でもあると思う。

論理についていけないと思ったら止めるだろう。論理の行く先が分かり切っていてもつまらないだろう。時間が無くたって階段は上らない。

階段を上がるという、一歩一歩はなんてことないのに、しっかりきつい作業を人にさせるために、一体どれだけの創意工夫をする必要があるんだろう。

 

 

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