先日、善意に便乗しない という記事を書きました。

この記事の中で、善に染まり過ぎた空間、善性で満たされた場所は怖い、というようなことに言及しました。
いくら善行でも、善性を持った事柄でも、「それを正義と信じて疑わない一塊の意思」というのは危ういものだと思います。
いままでどれだけ多くの血が「正義」の名の元に流されたかはご存知のはずです。
人の世に絶対の正義も善もなく、僕らは常に自らも他者も疑いながら、そして常に考えながら生きることが、信じたい気持ち(考えたくない気持ち)と折り合いをつける方法の一つなのではないかと思います。
笑うことは善いことだ、も自分が勝手に信じている善
そして昨日は 僕らは笑いたがっている という記事を書きました。

『寺山修二の芸術論集』という本の中にあった対談で、最近の若い連中は笑いたがっていて許せない、というようなことを言っていたのがちょっと衝撃的な見方だったのでメモしたものです。
笑いたがってることの何がいけないの?と第一印象で思います。
家庭も、学校も、職場も、笑顔あふれる朗らかな空間の方が良いに決まってる、と思う。
その感情自体は変わらないけれど、ああそうか「笑うことは善いことだ」ということも、僕が勝手に信じている善の一つなのだ、と気付きました。
思考の盲点があると知る
普段改めて善悪の判断を突き付けられなければ、考えもしなかったもの、というのが僕らには絶対にあると思います。
何もかも疑えなんて言い出すともうデカルト的な営みになってしまうからそんなつもりはないけれど、僕ら必ず思考の盲点を持っているということは知るべきだと思うのです。
自分が普段疑いもせずに「善」と見なしていることが、ある人にとっては不快なものだったり、腹立たしいものだったりすることがある。
もちろんそれぞれ自分なりの「正義」は持っていて然るべきだと思うし、意見が対立すれば戦ったり身を守ったりする必要もあると思うけど、それはそれ。これも別個に考えるべきことではないでしょうか。
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