一度読んで忘れてしまった小説に意味はあるのか

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くだらない問いのようにも思うけれど、半ば本気で考えることがある。

全く内容を覚えていない本を読んだ意味ってあるのかな。

こんなことを考えることがある。

とは言えタイトルくらいは覚えてるだろ?全然まったく覚えてないってことはないだろ?と思うかもしれないけれど、内容は知らなくてもタイトルは知ってる本なんて無数にあるし、なんなら読んだことはないけどあらすじを知ってる本だって無数にある。

そして内容を覚えていない本というのはマジで本当にまったく覚えてない。こんなシーンがあったなとか、こんなセリフがあったな、とかのレベルで覚えてない。

じゃあなんで「それを読んだ」って認識できるのかと言うと、考えてみれば自分でも少し不思議なんだけど、本の内容を取り巻く記憶は残ってたりするから。図書館で借りたなーとか、買って、読んで、それからずっと本棚にあるなーとか。

で、そんな本と正真正銘一度も読んだことのない本の間に差はあるのかな、読んだけど完全に忘れてしまった本を読んだ意味ってあるのかな。そんな疑問がときたま浮上するわけです。

 

今ここで言う本っていうのは、主に小説の話をしているんだけど、保坂和志著『書きあぐねている人のための小説入門』を読んでいて、たしか「小説とは読んでいる時間の中にしかない」というようなことが書いてあって、ひどく感動したというか、納得したというか、自分でも常にこう考えていたような気がした。

正確な引用でないことを許して欲しいんだけど、とにかくそう、自分がページをめくり、目を通している間に立ち昇ってきた何かが小説であり、小説ってのはそういうものを引き起こす起爆剤と言えば大袈裟だけど、とにかく自分の脳の隙間を伝っていく実にサラサラした刺激物という感じがする。

それは例えば友達と話しているうちに昔のことを次第次第に思い出すのと似ていて、それまでまったく意識に登っていなかった、生活から追い出していた記憶が久々に話題に上ったある一時期の話を機に去来して、確かに自分の実感として立ち上がってくる感じに近いと思う。

って書いてて気づいたんだけど、僕のこういう文章の書き方って保坂和志の『書きあぐねている人のための小説入門』とか『小説の自由』及び『小説の誕生』に多分の影響を受けている。

いや本当は少し意識的に真似して書いてる。僕にとって保坂和志の文章は読みやすく、読みやすいというか読みにくいんだけどなぜか納得しやすく、断定する箇所とまったく断定せずに考えながら書いてるみたいなものの割合が僕の低速な思考回路でギリギリ追いつける感じの、干支(思考レベル)は二週くらい違うけどとにかく干支は一緒だから共通点があるように感じるみたいな文章。

 

本題は読んでも覚えていない本に意味があるのか、なんだけど、別に意味も何もないんだろうなっていうのがここまで書いている間に考えた結論。

それが本当に、「言われてみれば友達と共有できる類の思い出」と同質のものなのであれば、そこに意味が生じるのは、旧友と話して、話してるあいだに思い出したことがあって、それをきっかけにあんなこともあったね、こんなこともあったね、って盛り上がれる一瞬にしか意味はなくて、誰がどんな記憶を持っているか、いつでも覚えているかというのは些細なことでしかないなと思う。

全く内容を覚えていない本でも、もし何かのきっかけでもう一度開くことがあれば、ああ読んだかも?辛うじて覚えてるかも?って思うかもしれないし、一度目ではスルーしたところに引き付けられることもあるかもしれない。

やっぱり小説ってのは読んでいる時間の中にしかなくて、もしそうなのだとしたら、覚えてなくても良いというわけではないと思うけど、未読も既読も関係なく、いつもいつでも新鮮なものなんだろうなと思うし、そういう小説が良い小説なのかなと思う。

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