小説が書けないときは漠然と面白いものを書こうとしてるし、漠然とすごいものを書こうとしている→具体的な制限を作る

自分で考える創作論

タイトルのまま、小説が書けないときは漠然と面白いものを書こうとしてるし、漠然とすごいものを書こうとしているなあーと思ったというお話しです。

漠然と、とにかく面白いものを書こうと思ってしまう、とにかく小説っぽく魅力的な言葉を並べたいと思ってしまう。何となく頭の中にあるんですよね理想が。理想の文字列が。もしくは理想の雰囲気が。

だけどそれは全然実際の文字として現れて来なくて、とにかく書きだしちゃうと意味深な文字列にすらならず、くだらなくつまらなく浅い散文になってしまう。

こんな風に小説が書けないときは具体的な制限が足りないのだ、と思いました。

制限は創造力の源だ、という話はよく聞く気がするけれど、こと小説に関しても僕らは「制限」をこそ見つめなければならないのではないでしょうか。

以下の話題とも重なると思います。

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小説を書く上での制限とは何か

考えてみれば、(その出来の良し悪しは別として)小説が書けるときというのは自分の中にはっきり「制限」があるときだと思います。

制限とはテーマでも良いし、文字数でも良い。例えば僕はある一場面が写真のようにあって、その場面に至るのに自然なお話しって何だろう?って考えることが多いタイプですが、この一場面も制限です。

主人公にこのセリフを言わせたいも制限だと思いますし、この人物を登場させたいも当然制限。

このように制限は数えるとなかなかたくさんあるけれど、たぶんあまり多くない方が良いんだろうな。

制限を一つに絞る、少数に絞る。言うなればこの制限のオリジナリティが作品のオリジナリティを作るのかも。

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小説を書く前に具体的な制限を作る

具体的な制限を作るって、何となく野暮ったいというか、手続き的な感じがして小説を書くのにふさわしくないって思ってしまったりするんですよね。

感覚で、激情に駆られてとか、センチメンタルに唆されてとか、そういう風に紡がれる文字列が小説になるのさ的な妄想というかがあって、内から溢れる言葉の奔流が、自然に物語を作っていくみたいのがカッコいい的な。

しかし実際はもっと事務的にというか、作業的に淡々と作っていく必要があるなって最近は思っていて、そのためには積極的に制限を作って、その中でベストを尽くすみたいなやり方が良いんだろうなと感じます。

 

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