「枠」と「内容」の関係について数日考えています。

「枠」とはクリエイトに必要な制限のことだと思います。内容を引き立てる制限。魅力的な制限。

枠とは内容を入れる何かのことを指していて、絵なら額縁、昆虫ならガラスケース。
僕らは有形無形様々な「枠」に囲まれているし、場合によっては「枠」を自分で作り出すこともできる時代だ。
ざっくりそんなことを考えてきました。
「まち」が枠だとしたら、「暮らし」は内容だ。ということを考えたのでこのことについて書いていこうと思います。
「まち」が枠で、「暮らし」が内容だと考えたときの二つの観点
二つの観点があります。
一つは、僕ら「まち」というルールや文化・歴史などにある程度束縛されているけれど、一人ひとりの「暮らし様」によって、枠である「まち」は形作られていくということ。
例えばゴミだしルールをそれぞれが守っていたり、ちょっと買い物のついでに行き会った人と会話したり、そういう小さな営みが、傍から見たときに「まち」の何かを規定したりする。
このことは前回書いた 囲まれてるものに影響を受けながら、囲まれてるものに影響を与えてる という記事を併せて読んでいただけると分かりやすいかもしれません。

もう一つの観点は、僕らの日々の営みは、どうしても「まち」という枠に還元、もしくは収れんされ、この枠を飛び越えるのはなかなか難しいということ。
例えば個人の営みが地元の新聞で紹介されたり、夕方の地域特集で放送されたりするとき、個人の生々しさは損なわれ「漠然とした善きニュース」となってしまう。
この話題は、少し以下の記事とかぶるところがあるかなと思います。

この二つの観点をあわせて何が言いたいかというと、僕らの小さな暮らしが良い町を形作るという意識は必要だけど、同時に「まち」という枠にとらわれない意識というものも必要なのかなということです。

具体的に「まち」という枠にとらわれないために
じゃあ具体的に「まち」という枠にとらわれないためにどうするのか。
少し言い方は乱暴かもしれませんが、「まちに歓迎されないことをする」とか「まちに注目されないことをする」ということをやって良いのではないかと思います。嫌われたり避けられたりする必要はないけれど、うまいこと放っておかれる、というか。
で、うまいこと放っておかれるには、暮らしや営みの細部に気を払ったり、こだわりを持って秩序立てたり、あとは、自分のストーリーを頑ななまでに生きたり、そういうことが大事なんじゃないか。
全然注目されない小さなコミュニティで誰も知らない冒険をしよう。

コメント